ファミコンブームの誕生とハドソン成功の理由:高橋名人が語る(4/6 ページ)
任天堂が発売した家庭用ゲーム機「ファミコン」は、80年代を代表する社会的な大ブームを巻き起こしました。どのようにしてそのブームはでき上がっていったのでしょう? その裏側にあったものとは? 立役者の一人である高橋名人が語ります。
ファミコン市場へ参入したハドソン
さて、私がハドソンに入社したのは1982年です。当時のハドソンは、PC用のソフトウェアをカセットテープに記憶して販売していました。私が入社したのは31番目なのですが、その時の年間売り上げは15億円ほどでした(※編集部調べ)。
商品はPCショップで販売されているだけではなく、PC雑誌の広告を通じた通信販売もありました。毎日毎日、その現金書留を運んでくれる郵便局員さんは、社内で「サンタクロース」と呼んでいたほどに売り上げが伸びていました。
ちなみに、それまでのゲームプログラムは、雑誌に掲載されていたプログラムリストを自分で入力していく方法しかありませんでした。何万文字にも及ぶプログラムの入力なので、エラーが出て当たり前。「シンタックスエラー」が表示されるたびに、そのエラーが指し示している行番号を確認して、文字の入力ミスを修正していくのです。これらの作業は、とても時間のかかるものでした。できれば、もっと簡単に、そのプログラムを遊んでみたいと思うのも当然のことだと思います。
そこに目を付けたのが、当時のハドソン・工藤裕司社長でした。「このプログラムをカセットテープに記憶したら、売れるのではないか?」。そう思って、それまで雑誌に掲載していたプログラムをカセットテープに記憶させ、販売してみたところ、驚きの売り上げ結果になったそうです。
これらゲームなどのプログラムのほかに、シャープ製のコンピュータOSとして「Hu-BASIC」も制作販売していました。このHu-BASICは、より一般的にコマンド入力を取り入れたことから、一般の方にも浸透していきました。その結果、後に発売された「X-1」というパソコンの基本OSにもなりました。
その流れがあったことで、83年にファミコンが発売されたとき、任天堂からシャープ経由で、「ファミコン用のベーシックを開発しないか?」という申し入れがあったのです。
当時のPC用ゲームソフトは、ヒット作でせいぜい1万本前後の販売数でしたが、ファミコンは、どのタイトルでも30万本前後を出荷していたのを知り、ファミコンへの参入を決めたのです。そして、1984年7月に「ロードランナー」と「ナッツ&ミルク」という2タイトルで、ファミコン初のサードパーティとしてハドソンはファミコンの世界に身を投じたのです。
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