競合ゲーム機「PSP」の脅威が任天堂社内を変えた:新連載・任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(4/4 ページ)
「Wiiのプレゼンテーションを最も多く経験した男」。任天堂の岩田元社長からもそう評された玉樹さん。本連載では、Wiiの開発担当者として、いかに商品を生み出し、世に広めていったか、そのプロジェクトのリアルをお伝えします。
「過去を否定してはいけない。先輩の努力で今の会社はあるのだから。しかし、過去を否定することなく、私たちは変わることができる。私はゲームが好きだし、皆さんもゲームが好きだし、先輩たちもゲームが好きだ。だから、ゲームをもっと愛してもらうためのプロダクトを考えることなら、皆が一丸になれるはずだ。そして、最も大切なお客さまもゲームを好いていてくれるのだから、私たちの新しいプロダクトを喜んでくれるはずだ」
本当に大切なことさえ共有できれば、過去から続く一連の流れが結果的に変わろうとも、プロダクトが変わろうとも、何の問題もない。ゲームを好きな人が集まって、ゲームを世界中の人たちが遊べるものを作れば、ゲームが好きな人とゲームを嫌う人の不毛な争いもなくなる。大好きなゲームを親に隠されて悲しい思いをする子どももいなくなる。「家族皆でリビングで遊ぶ」「お母さんに嫌われない」といったコンセプトが、岩田さんという焚き火の前で形作られていきました。
そして私は、Wiiを作ることこそが、任天堂に勤めながら祖母に恩返しするための唯一の方法だと、意識することになります。仕事上の自分とプライベートな自分の矛盾が解消され、自分自身がひと固まりの強いものになった感覚がありました。こうなると、お客さんのために懸命に良いものを作ろうというエネルギーは、自然と湧いてくるものです。
しかし実際のところ、思いだけではプロダクトはできません。次回は、思いから仕様への変換作業、具体的なアイデア出しとWiiの試作、開発の流れについてお話します……と言いたいところですが、Wiiを実現するためには、まだ足りないものがあります。それは「Wiiという企画をみんなに伝え、共感してもらうこと」、すなわちプレゼンです。
次回は、Wiiというまったく新しいプロダクトがいかにプレゼンされたかについてお話したいと思います。
著者プロフィール
玉樹真一郎(たまき しんいちろう)
わかる事務所 代表
1977年生まれ。東京工業大学・北陸先端科学技術大学院大学卒。プログラマーとして任天堂に就職後、プランナーに転身。全世界で1億台を出荷した「Wii」の企画担当として、最も初期のコンセプトワークから、ハードウェア・ソフトウェア・ネットワークサービスの企画・開発すべてに横断的に関わり「Wiiのエバンジェリスト(伝道師)」「Wiiのプレゼンを最も数多くした男」と呼ばれる。
2010年任天堂を退社。青森県八戸市にUターンして独立・起業。「わかる事務所」を設立。コンサルティング、ウェブサービスやアプリケーションの開発、講演やセミナー等を行いながら、人材育成・地域活性化にも取り組んでいる。
2011年5月より特定非営利活動法人プラットフォームあおもり理事。2014年4月より八戸学院大学ビジネス学部・特任教授。
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