長く売れ続ける「定番」を狙う デザイナー・小関隆一氏のモノ作り哲学とは?:「全力疾走」という病(2/7 ページ)
ワインボトルの形をしたLED照明「Bottled」や、ペン型のはがせる水性塗料「マスキングカラー」など、ユニークな日本の技術をうまく組み合わせた商品をデザイン。これらは国内外で売れ続けている。その仕掛け人、デザイナーの小関隆一氏の生き方を追った。
バンド活動に明け暮れる
「確かに幼少時代から絵を描くのは好きで、周囲からもうまいと褒められていました。けれども、そんな子どもはどこにでもいるでしょう」
教育熱心な両親を持つ小関は、物心ついたときから勉強をしなさいと言われて育てられた。小学生のころは素直に親に従い勉強し、成績も良かったが、中学生になると反発し、まるで勉強をしなくなってしまう。ちょうどそんなときに友人から誘われてバンドを始めた。
当時は空前のバンドブームで、小関が高校に入ってからはTBSテレビのオーディション番組「イカ天(三宅裕司のいかすバンド天国)」が大ヒットした。小関の担当楽器はベース。バンドではGuns N' Rosesといったハードロック音楽をカバーした。高校時代も引き続きバンド活動に熱中し、勉強はしなかった。当時を振り返り「単なるバカ者ですよ」と苦笑いする。
そんな小関に人生の転機が訪れる。そもそも勉強などしていなかったので、大学進学に対してさほど真剣に向き合っていなかったが、いざ目の前に迫ってくるとさすがに進路先を考えざるを得なくなった。
ただし、理数系はもとより、経済や英文学などを勉強するイメージがなかったし、音楽は好きだと言っても、それで将来食べていけるなんて思っていなかった。そこで何となく選んだのが「デザイン」である。
「こんな自分でもやっていけそうな選択肢を探していたら、どうやら美術大学というのがあるらしいということを知りました。美大の中でもデザイン科がおもしろそうだと興味を持ったのです」
さらに調べていくと、美大と言っても入学はそう簡単ではなく、美大受験専門の予備校に行ってそこで勉強しないといけないということが分かった。親に伝えると「とりあえずやってみろ」。そこで高校3年生から予備校に通うことになった。
かつては絵が得意な少年だったが、「予備校では思っているほどうまく絵が描けない。一方で、周りの同級生はめちゃくちゃレベルが高いわけです」と、早くも壁にぶつかることになる。
結局、二浪して大学に入ることになるが、予備校に2年間通ううちに絵の実力はメキメキと上達、予備校内でも常にトップを争っていた。予備校時代は自然とバンド活動を止め、大学入学を目標に絵を描くことに集中した。実際、絵を描くことの方が楽しかったのだという。
「バカ者だった高校生から真面目な人間にシフトするために、結果的に2年かかってしまいました。親にとってはたまったものではないでしょうが(苦笑)」
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