長く売れ続ける「定番」を狙う デザイナー・小関隆一氏のモノ作り哲学とは?:「全力疾走」という病(3/7 ページ)
ワインボトルの形をしたLED照明「Bottled」や、ペン型のはがせる水性塗料「マスキングカラー」など、ユニークな日本の技術をうまく組み合わせた商品をデザイン。これらは国内外で売れ続けている。その仕掛け人、デザイナーの小関隆一氏の生き方を追った。
デザインはビジネスが土台
1994年に多摩美術大学に入学。デザイン学科でインテリアデザインを専攻した。平面デザインよりも立体デザインに興味を持ち、さらには立体の中に入り込むもの、すなわちインテリアをやりたいと思ったからだ。当時、インテリアデザインを教えるのは多摩美術大学しかなかった。
入学前、予備校の仲間から美大の授業は大変だと聞いていた。ひとまず与えられた課題をどれだけこなせるかということを当面の目標に掲げた。「必死で食らいついていこう」。そう思って大学に通い始めた小関は目にした光景にショックを受けた。
「大学生活をエンジョイしようという学生を見てギャップを感じました。僕はせっかく美大に入った以上は専門性を磨く勉強をするのが最優先だと考えてましたし、ここで一緒に遊んでいても楽しめないなと思いました」
周囲に流されず、進んで孤立し、とにかく課題を黙々とこなした。デザインを勉強しているうちに、デザインというのはビジネスが土台にあるものなので、学校で習うことではなく、実践に飛び込まないと意味がないということに気付いた。実際に教授からも「デザインは人のカネでモノを作ることだから、そこに責任を持て」と言われていた。
すぐさま行動に移す。デザイン事務所でのアルバイトを試みたのだ。応募を見たり、人づてに聞いたりしてたどり着いたのが、ある有名デザイナー率いるインテリア専門の事務所である。
この事務所に飛び込んだ理由はもう1つある。将来、自分の顔と名前だけで仕事するようなデザイナーになりたいと思っていた。現にそれを体現している人のキャリアを見ると、皆どこかのタイミングで独立して勝負を仕掛けていた。ならば、自分もそういうデザイナーの下で働かないと見えない世界があるだろう。小関は企業に就職するなどほとんど考えていなかったので、修行するつもりでアルバイトに打ち込んだのである。
ここでの経験は想像以上だった。圧倒的なスピード感、質の高さ、そして寝ないでも働き続ける体力……。事務所の人たちにとってはそれが当たり前だった。「ここで実践のリアルな厳しさを知ったので、社会出ても何とも思わなくなりました」と小関は力を込める。
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