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90年前にMaaSの思想があった! 富山に根付く「どこからでも市街地へ」の精神杉山淳一の「週刊鉄道経済」(4/6 ページ)

2020年3月、富山市内の2つの路面電車が接続し、相互直通運転を開始する。さらに2社が合併することで、運賃は実質値下げとなる。この“英断”から富山の公共交通の歴史を探ると、90年前に生まれた「一県一市街化」構想が、現代の「MaaS」に通じることが分かる。

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戦時下で「交通一元化」構想が実現する

 その後も佐伯は富山県の交通一元化を目指していた。しかし鉄道会社合併後、10年以上も停滞する。いや、富山県どころか、日本はそれどころではなかった。富山電気鉄道設立時より中央では軍部が台頭し、1931(昭和6)年に満州事変が勃発すると、日本は戦時体制に入った。

 そんな中、期せずして佐伯のもくろみが達成された。1943(昭和18)年の「陸上交通事業調整法」だ。世界恐慌や戦時下において、中小交通事業者の乱立、競合が問題視された。そこで、地域ごとの交通事業者を統合するために「陸上交通事業調整法」が作られた。指定地域は東京・大阪・富山・香川・福岡だった。東京では主要私鉄を束ねた「大東急」が誕生し、大阪では近畿日本鉄道と京阪神急行電鉄が誕生した。

 その頃、富山では、富山電気鉄道を中心とし、加越鉄道、富山県営鉄道、黒部鉄道、越中鉄道、富山市営軌道を合併して、富山地方鉄道が誕生した。この時、富山・高岡など4地域のバス会社も合併する。これで多くの山里から富山市へ行く交通網ができた。佐伯の「一県一市街化」構想は、ひとまずここで歴史に区切りを付ける。

 戦後、すぐに佐伯宗義は政界に進出。各地方が交通と観光によって地方を発展させれば、総じて国の発展につながるという考えを持つ。黒部川奥地の電源開発を地元立山の観光に生かすべく、1952(昭和27)年に立山開発鉄道を設立するも停滞。1964(昭和39)年に立山黒部貫光を設立して再挑戦し、1971(昭和46)年に立山黒部アルペンルートが全通した。構想から25年がたっていた。

 公共交通手段を用いて北アルプスを横断する観光ルートは、現在も各地の観光回遊ルート策定の手本となっている。公共交通で地域を活性化させる「一県一市街化」に通じる佐伯らしい取り組みであった。

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