従業員10人の町工場が手掛けた「下町アーチェリー」 東京・江戸川区からパリ五輪へ:“日の丸アーチェリー”復活(3/6 ページ)
かつて世界に誇るアーチェリー専門ブランドがあった日本。バブル崩壊後の不景気や少子化などで事業撤退を余儀なくされ、“日の丸アーチェリー”は2000年代初頭までに事実上、消滅したが、約20年の時を経て、昭和感が残る下町の小さな町工場がそのDNAを引き継いだ。いかにして、国産アーチェリーは復活を遂げたのか。その舞台裏を取材した。
採算性悪化で撤退した日本の2大メーカー
西川製の弓はどのような経緯で誕生したのだろうか。開発劇の本題に入る前に、まずは日本のアーチェリー業界の歴史に触れておく。
かつて日本はアーチェリー大国だった。楽器のイメージが強いヤマハは1958年、開発に着手し、翌59年、アーチェリー用弓の初の国産化に成功した。同社の4代目社長で、ヤマハ発動機の創業者でもある川上源一社長が米国視察の際に海外製の弓に触れたことがきっかけだった。
学生時代から弓道に取り組んでいた川上氏は、その弓の精度の高さに驚き、「ウチでもアーチェリーをつくるぞ」とトップダウンで社内に号令をかけたのだという。こうした功績から、川上氏は一部から「日本アーチェリーの父」とも称される。弓に使用したFRP(Fiber Reinforced Plastics、繊維強化プラスチック)はその後、ボートの開発などにも生かされ、ヤマハの事業拡大につながった。
ヤマハに対抗したのが、同じ日系メーカーの西沢(ブランド名はニシザワ)だ。同社はカーボン製リムの量産化に世界で初めて成功。2004年アテネ五輪のアーチェリー男子個人で銀メダルを獲得し、「中年の星」と言われた山本博選手(当時41歳)が使用したのもニシザワ製だった。
山本選手同様、五輪メダリストなど海外の有力選手にも愛されたヤマハ・ニシザワの日系2ブランドが、優れた技術力と品質を武器に米HOYT(ホイット)と激しい開発競争を展開。世界のアーチェリー業界をけん引していた。
ところが90年代後半から2000年代初頭にかけて、2社は相次いで事業から撤退。主要因は日本の少子化に伴うアーチェリー需要の減少だった。
2社の撤退以降、台頭したのが韓国メーカーのWIN & WINだ。自国メーカーの存在もあり、韓国は92年バルセロナ五輪から21年東京五輪にかけて女子団体が8連覇するなどアーチェリーの強豪国として知られる。東京五輪の日本代表コーチ4人のうち2人が韓国人であることからも、その強さがうかがえる。
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