伊藤忠が「人事改革の失敗」から得た教訓 “働きやすい会社”を目指すのはやめて、どうしたのか:【前編】徹底リサーチ! 伊藤忠商事の人的資本経営(1/2 ページ)
労働生産性を着実に向上させてきた伊藤忠商事。「働きやすい会社」を目指した人事制度改革の“失敗”を経て、現在はどのような戦略目標を掲げているのか。変革の裏側と、人的資本経営の真髄に迫る。
連載:徹底リサーチ! あの会社の人的資本経営
近年、注目される機会が増えた「人的資本経営」というキーワード。しかし、まだまだ実践フェーズに到達している企業は多くない。そんな中、先進的な取り組みを実施している企業へのインタビューを通して、人的資本経営の本質に迫る。インタビュアーは人事業務や法制度改正などの研究を行う、Works Human Intelligence総研リサーチ、奈良和正氏。
「厳しくとも働きがいのある会社」という人材戦略を掲げ、大手総合商社の中でも単体従業員数は最少という状況下で、労働生産性を着実に向上させてきた伊藤忠商事。
同社の人材戦略や働き方改革に関する取り組みを人事・総務部 企画統轄室長 岩田憲司氏にインタビュー。インタビュアーは人事業務や法制度改正などの研究を行うWorks Human Intelligence総研リサーチの奈良和正氏が務めた。
多くの日本企業が苦戦する中、伊藤忠商事はどのように労働生産性の向上を実現できたのか。過去に「働きやすい会社」を目指した人事制度改革の“失敗”を経て、現在はどのような戦略目標を掲げているのか。また、学生に人気の企業ランキングの上位常連に至るまでの、地道な道のりとは。伊藤忠商事の変革の裏側と、人的資本経営の真髄に迫る。
人事制度改革の“失敗”を経て……目指すべきは「働きやすい会社」ではなかった
奈良: 伊藤忠商事では、「厳しくとも働きがいのある会社」を目指し、6つの「人材戦略目標」を掲げていますよね。
岩田: はい。(1)優秀な人材の確保(2)働き方の進化(3)健康力向上(4)主体的なキャリア形成支援(5)成果に応じた評価・報酬(6)経営参画意識の向上、6つの目標を掲げ取り組んでいます。
「厳しくとも働きがいのある会社」において最初に大事になるのが(1)優秀な人材の確保です。そのために、就職活動をしてこれから社会に出てくる大学生とその親御さんへの訴求に力を入れています。
奈良: 親御さんへの訴求も重視されているのですね。
岩田: そうですね。「伊藤ただし(忠)さんって誰?」と言われた時代もありました。このため、数年前からコーポレートブランドを専門的に取り扱う部署を設置し、事業内容や職務内容を広い世代に対して訴求し企業ブランドの向上に努めています。
奈良: 先日も報道されていましたが、大学生の就職人気ランキングではいつも上位にいらっしゃいますよね。
岩田: そうなんです。昔は万年10位や15位くらいで、あまり商社の中では高くなかったのですが、今は徹底的にこだわってます。派手な活動ではありませんが、大学生向けのさまざまなセミナーに出掛けて、伊藤忠商事のことを説明し、理解してもらっています。
その結果として、いくつかの媒体で日本全国のランキング1位をいただきました。そうなると、これまで以上に優秀な方も伊藤忠商事に興味を持ってくださいます。ランキング1位をいただいたことで、当社への入社を希望される方の数も増えました。
奈良: 企業ブランドを向上させることで採用力を強くし、より優秀な人材が集まり、さらにブランド力が高まり、と良い循環が生まれているんですね。
採用においては、ブランド力も当然ですが実際の働く環境についても重視されると思います。働き方に関する取り組みについても教えていただけますか。
岩田: 人材戦略目標において(2)働き方の進化を掲げ、朝型勤務制度の導入や在宅勤務制度を導入し、効率性を追求しています。実は(以前はあった)フレックス文化をなくしたことがあったのですが、新型コロナウイルスの感染が拡大した時に在宅勤務を大幅に取り入れました。コロナ禍が落ち着いてきて、これを撤廃するか残すか議論したところ、現在は週2回の在宅勤務が可能となっています。
今の時代、さまざまな働き方がありますし「3年のコロナ禍を経て、会社は変わらないのか」という社員の見方もあります。権利としてシステムとしては使えるんだけど、使うかどうかというのは当然本人に委ねる、そういう尊重した形で今は運用をしています。
(3)健康力向上については、安心して働き続けるための環境整備をしています。朝ご飯をちゃんと食べて、体に障らないよう夜遅くの残業を防止する朝型勤務制度にも健康の要素が入っています。
これ以外にも、がんと仕事の両立支援にも取り組んでいます。国立がん研究センターと提携して、40歳以上の従業員を対象に精密ながん検診をしています。毎年数人が早期がんと診断されていますが、早期がんの場合は、手術せずに投薬や放射線で治療をすることがあるので、治療をしながら仕事を継続する従業員も多くいます。
何かあっても会社でサポートするという姿勢が、従業員に安心感を与えているのではないかと思います。
従業員の健康や生産性向上以外にも(4)主体的なキャリア形成支援(5)成果に応じた評価・報酬といった、従業員の適性を踏まえた成長機会の創出や、成長につながるフィードバックや納得度の向上を通じた評価・報酬制度に取り組んでいます。
奈良: 従業員をおもんぱかりつつ、生産性や離職リスクの低減を図るような施策を講じながら環境整備をされているんですね。最後に(6)経営参画意識の向上ですが、こちらは他社ではあまり聞かない取り組みですが、どのような取り組みでしょうか。
岩田: はい、こちらは持株会などを活用した中長期的な資産形成で、従業員持株会加入比率向上に関するちょっと珍しい取り組みです。
従業員持株会は上場企業を中心に導入されていると思いますが、加入率は日本企業だと50〜60%かと思います。以前当社も同じくらいの加入率でしたが、現在は加入率99%となっています。
業績が一定以上超えた場合のいわゆるボーナス的なものを株で払う制度を取っているので、加入率が高くなっています。
株主になるとどういう事が起きるかというと当然当社の株価が気になりだしますよね。時価総額がどうなのかとか、当社の事業に対する目線も変わってきます。
実は、われわれが作成している統合レポートをわざわざ紙に印刷して海外駐在員も含めて全員に郵送しています。さらに、従業員も株主ということで、統合レポートのポイントについて社内にも説明をしています。
こうした取り組みを通して、外部から有効な事業として見られているポイントを理解していただき、経営参画意識を高めてもらっています。
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