西武と小田急が激突「箱根山戦争」も今は昔――小田急車両が西武を走る光景に見る、時代の転換(1/4 ページ)
西武鉄道が小田急電鉄で活躍した8000形を「サステナ車両」として導入。だが、かつて両社は「箱根山戦争」と呼ばれる泥沼の戦いを経験していた。歴史的対立を経ての協調に、時代の転換を見る。
筆者プロフィール:森川 天喜(もりかわ あき)
旅行・鉄道作家、ジャーナリスト。
現在、神奈川県観光協会理事、日本ペンクラブ会員。旅行、鉄道、ホテル、都市開発など幅広いジャンルの取材記事を雑誌、オンライン問わず寄稿。メディア出演、連載多数。近著に『湘南モノレール50年の軌跡』(2023年5月 神奈川新聞社刊)、『かながわ鉄道廃線紀行』(2024年10月 神奈川新聞社刊)など。
2025年5月25日、午後1時32分。多くの報道陣や鉄道ファンが見守る中、西武新宿駅ホームに長年小田急電鉄で活躍した8000形車両が静かに入線した。この車両は、2024年5月に西武鉄道が小田急電鉄から譲受したもの。25日は小田急から西武への「引継ぎ式」が執り行われるとともに、事前に申し込んだ乗客を対象とする乗車・撮影会が行われた。今後は、西武8000系として国分寺線で運行される。
「箱根山戦争」という泥沼の争い
それにしてもなぜ、小田急電鉄の車両が西武鉄道に譲受されたのか。実は西武鉄道は、2030年度を目標に省エネルギーで環境負荷の少ないVVVF化(VVVFインバータ制御車両の導入)100パーセントを達成するため、新造車両だけでなく、他社からの譲受車両「サステナ車両」を並行して導入する取り組みを進めている。今回の小田急8000形の導入は、このサステナ車両導入の第一弾となるもので、今後は東急電鉄の9000系の導入も予定している。
サステナ車両の導入について西武鉄道の小川克弘車両部長は「安全上、必要な装置の取り換えなどは行ったが、継続して使えるものはしっかりと活用するなどサステナブルな改造を意識した」とする。一方、車両改造工事を担当した小田急エンジニアリングの岩﨑佳之社長は「8000形は、長い間小田急線の安全と快適をけん引してきた名車。サステナ車両として生まれ変わり、これからも(西武鉄道で)活躍することをうれしく思う」とコメントした。
ところで、小田急電鉄の車両が西武鉄道の線路を走るというのは、ある世代以上の人にとって、特別な感慨があるはずだ。というのも、今から半世紀以上前、西武グループと、小田急・東急グループの間で、「箱根山戦争」と呼ばれる激しい争いが繰り広げられていたからだ。その「箱根山戦争」も今は昔、すでに知らない世代も多く、あらためてこの「戦争」について書き記すのも意味のないことではないだろう。
「箱根山戦争」は西武グループ創業者の堤康次郎と東急グループ創業者の五島慶太との間の争いだった。堤は1889(明治22)年、滋賀県の貧しい農家の生まれ。田畑を担保に金を工面して上京し、早稲田大学に入学。在学中に株で大もうけし、その金を元手に鉄工所の経営、雑誌社の社長、真珠の養殖などさまざまな事業に手を出すが、いずれも失敗。思い詰めた末に「世の中のためになる事業をしよう」と、未開発地を切り開いて別荘地を開発する事業を始めた。
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