西武と小田急が激突「箱根山戦争」も今は昔――小田急車両が西武を走る光景に見る、時代の転換(2/4 ページ)
西武鉄道が小田急電鉄で活躍した8000形を「サステナ車両」として導入。だが、かつて両社は「箱根山戦争」と呼ばれる泥沼の戦いを経験していた。歴史的対立を経ての協調に、時代の転換を見る。
軽井沢の千ヶ滝から別荘地開発に踏みだし、1919(大正8)年には箱根の強羅に10万坪の土地を取得。翌年3月に箱根土地(後のコクド、2006年にプリンスホテルに吸収)を設立し、本格的に箱根に進出した。その後、芦ノ湖の遊覧船の会社組織化、静岡県下で鉄道事業を運営していた駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の買収などを進め、さらに箱根に自動車専用有料道路を建設するなど交通事業の拡張・近代化を進めた。
箱根以外では東京の目白文化村などの郊外住宅や、大泉学園・小平・国立の学園都市などの開発を手掛け、武蔵野鉄道(西武池袋線の前身)、旧・西武鉄道(西武新宿線の前身)の社長にも就任(両社は戦後に統合)。また36歳で衆議院議員選挙に初当選し、政界進出も果たしている。
一方の五島慶太は1882(明治15)年、長野県の農家に生まれた。苦学の末に東京高等師範学校(当時)を経て東京帝大に入学し、卒業後は官界へ。農商務省から鉄道院(後の鉄道省・国鉄)へ転じ、最終的に監督局総務課長となるが、「官吏というものは、人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いて、ようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならないものだ。(中略)いかにもつまらない」(自叙伝『七十年の人生』要書房刊)と言い、38歳で実業界への転身を決意する。
五島はまず、渋谷―横浜平沼間の本線(現・東横線に相当)と蒲田支線(現・東急多摩川線に相当)の敷設免許を持つ、武蔵電鉄の常務に就任。その後、鉄道院時代に知遇を得た阪急電鉄創業者の小林一三に請われ、現・目黒線と大井町線に相当する路線の敷設免許を持っていた目蒲電鉄の専務も兼任し、鉄道建設を進めた。以後、昭和初期の財界不況に苦しみながら、池上電鉄(現・池上線)、玉川電鉄(現・田園都市線の一部に相当)など他社を次々と買収し、鉄道業界で大きな地位を築く。だが、その手法が強引だったため、「強盗慶太」の異名がついた。
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