白鬚神社・高麗神社――東武東上線沿線から探る、日本に残された“異国”の地名ミステリー(4/4 ページ)
2025年で100周年を迎える東武東上線。その沿線に広がる「鶴ヶ島」「白鬚神社」「高麗神社」──地味なローカル地名に見えるこれらは、実は朝鮮半島から亡命した王族の痕跡だった。古代日本における多文化形成の核心を、地名と鉄道から読み解く。
悠久の歴史のある高麗郡
大磯町には、今も若光らの上陸地と伝わる「唐ヶ原」(行政上の地区名としては平塚市)という地名が残っている。
さらに唐ヶ原から花水川を少し遡った場所には「高麗山」があり、その麓には高来(たかく)神社がまつられている。同神社は、元々は高麗寺という神仏混淆(こんこう)の寺院だったが、明治初頭の神仏分離で高麗寺が廃され高麗神社となり、さらに1897(明治30)年に高来神社と改称し、現在に至っている。このように大磯には、若光渡来伝承が史実かどうかは別として、高麗人が移り住んだ名残ともいえる地名や遺構が今も見られる。
この大磯に上陸した高麗人は、前述の伊勢原の白鬚神社(日向神社)や高座郡という地名が示すように、大磯から内陸部に向かって勢力を広げていったものと思われる。白鬚神社付近を流れる日向川は1946(昭和21)年に開削された新玉川を経て、現在は相模川に流入しているが、それ以前は大磯町高麗付近を流れる花水川に注いでいたというから、川の流れに沿って北上した可能性がある。
また、高座郡の名称について『藤沢市史 第四巻』は、「もと帰化系高麗人が多く移住して、開拓にあたったことから、この郡名を得たのではなかろうか、とも推察される」とする。『関東地方における高麗人・新羅人の足跡』(荒竹清光著)は、「騎馬民族であり勇壮で騎射にたけ、狩猟を得意とする高句麗人は、移動式焼畑耕作を背景に、山地民的性格を発揮しつつ拡大移住していったであろう」との見解を示している。
さて、若光の名が国の正史に再び登場するのは大宝3(703)年のこと。『続日本紀』に「従五位下、高麗若光に王(こきし)の姓(かばね)を賜う」との記述が見られる。ここでいう「王」というのは、「臣(おみ)」や「連(むらじ)」などと同じく、朝廷から与えられる称号である姓の1つである。「王」は、主に外国の王族出身者に与えられた姓であることから、若光も高句麗王家の一族だったと考えられる。
さらにその13年後、716(霊亀2)年、高麗系の移民に大きな転機が訪れる。『続日本紀』に「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡を置く」と記述されているように、この年、新たに武蔵国に高麗郡が建郡され、高麗系渡来人1799人が東国各地から集住させられたのである。
この新たに建設された高麗郡の中心だったのが、前述した鶴ヶ島市に隣接する日高市および飯能市の一部だった。日高市には今も、高麗王若光の子孫と称する高麗一族が宮司を務める高麗神社(祭神は高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰命の三柱)がある。
『続日本紀』の高麗郡建郡に関する記述に、若光の名は見られないが(この時点での生死不明)、若光が高麗郡の初代郡司(首長)を務めたという説がある(高麗神社社伝)。もし、そうならば大磯付近を拠点としていた若光は、このとき領民を率いて日高へと移住したのだろう。来日時に20代だったとして、この頃にはすでに70歳を越える老齢となり、まさに「白鬚明神」のような容貌になっていたはずだ。
ちなみに全国にある白鬚神社の総本宮である近江の白鬚神社の祭神は猿田彦命である。猿田彦は白髭を湛えた老人として描かれ、天孫降臨の物語においてニニギノミコトを高天原(たかまがはら=天上界)から葦原中国(あしはらのなかつくに=日本)まで道案内したことで知られる。高麗の人々を安住の地へと導いた若光と、その姿が重なる。
なお、千余年の悠久の歴史のある高麗郡の名称は、1896(明治29)年に高麗郡が入間郡に編入されたことにより消滅している。
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