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白鬚神社・高麗神社――東武東上線沿線から探る、日本に残された“異国”の地名ミステリー(3/4 ページ)

2025年で100周年を迎える東武東上線。その沿線に広がる「鶴ヶ島」「白鬚神社」「高麗神社」──地味なローカル地名に見えるこれらは、実は朝鮮半島から亡命した王族の痕跡だった。古代日本における多文化形成の核心を、地名と鉄道から読み解く。

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若光とは誰なのか?

 さて、ここに登場する若光とは誰なのだろう。その名は古代日本の史書である『日本書紀』と『続日本紀』にも登場する。まず『日本書紀』を見ると、天智天皇5年(西暦666年)、高句麗(朝鮮半島北部から中国東北部の一部を領有していた国名)の外交使節が日本の大和朝廷を訪れたことが記されており、この使節の中に「二位玄武若光」の名が見られる。

 高句麗は当時、唐と新羅の連合軍に攻められ、存亡の危機にあった。若光らは救援を求める使節として日本に遣わされたものと思われるが、その後間もなく668年に高句麗は滅亡する。

 こうしてみると『史跡と文化財のまち いせはら』に書かれている話(大磯町にも類似の高句麗系渡来人の伝承がある=『大磯町史 6』に掲載)と、『日本書紀』に記されている内容は整合していない。『いせはら』では、若光は亡命移民の統率者として描かれており高句麗滅亡後に日本にやってきたことになっているが、『日本書紀』では外交使節の一員として祖国の危機を救うために来朝したこととされている。

 この2つの物語に登場する若光が同一人物だとすると、どのように考えれば話のつじつまが合うだろうか。資料が少ないため推測による部分が多いが、次のように考えてみたい。まず、若光が外交使節の一員として日本に来た直後、高句麗国内では内乱が起き、間もなく高句麗は唐・新羅の連合軍に攻め滅ぼされてしまう。

 祖国を失い日本にとどまらざるを得なくなった若光は、そのまま都で朝廷に仕えたのかもしれないし、あるいは亡命してきた祖国の人々を率いて、当時、渡来人の定住が進みつつあった東国を目指し、難波津(現・大阪)あたりから船で東へ向かい、大磯に上陸したのかもしれない。

 後者のように考えると、2つの話は1つの流れとして整合するし、ロマンも感じる。その場合も、後述するように若光は朝廷から位階を授けられていることから地方官的な役職には就いたのだろう。

 ちなみに当時の東国の様子を見ると、これより少し前、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れて滅亡した百済(くだら=朝鮮半島南西部に存在した国)からの亡命移民2000余人が、666年に東国に移されている。当時、東国は朝鮮半島からの難民の受け皿になっていたのだ。若光が高句麗難民たちを率いて大磯に移住した可能性は十分にあるのではないか。

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