500円席は投資、10万円席で回収 ハンドボール界が仕掛ける「超・高低差プライシング」(2/2 ページ)
パリ・サン=ジェルマンを日本に招へいする「PSGハンドボールジャパンツアー」は、年を追うごとに認知を拡大してきた。実行委員会事務局長は「チケッティング(チケット販売に関わる業務全般)は、事業を推進していくための最大のカギ」と語る。高いチケットは「10万円超」、安いものはなんと「500円」。この「超高低差のプライシング戦略」が、ハンドボール市場を活性化する戦略だという。
施設側から許可が下りない 泥臭いオペレーションで課題解決
現在、プロバスケットボール「B.LEAGUE」(Bリーグ)の呼びかけもあり、全国各地に最新のアリーナが続々と建設されている。だが、ハンドボールがこれらの一等地の施設を活用するには、致命的な構造的問題があった。
激しいプレーを支えるために、選手が手に使う滑り止めの「松脂」(まつやに)の存在だ。使用後に床面がベタベタになってしまうため、施設側から使用許可が下りないという課題に直面していたのである。
この課題を、PSGハンドボールジャパンツアー実行委員会は、現場のオペレーションを改善することによって解決した。特殊な清掃技術を導入し、試合後にはフロアをピカピカの状態へと復元する運用ルールを、施設側と構築したのだ。
この「松脂の清掃問題」の話を聞いて、筆者は驚いた。華やかなスポーツ興行や先端ビジネスの裏側には、往々にしてこうした泥臭いボトルネックの解消が存在する。一見、マーケティングとは無縁に思える「清掃の改善」こそが、最新アリーナという最高の会場を確保するための手段となったのだ。この事実を考えると「泥臭さは、実は最大のマーケティング戦略」のように思える。
またPSGの対戦相手であり、現役の日本代表選手や各国の代表経験者が多く在籍するジークスター東京(運営、ジークスタースポーツエンターテインメント)では2024年、フューチャーの執行役員である黒田真一氏が新社長に就任した。黒田社長は、チーム始動当初からのスローガン「テクノロジー×スポーツ」を推し進め、選手の技術強化やチームの戦術・戦略立案にもAIやデータ分析を活用している。
黒田社長はITコンサルティングの領域で多くの経験を持ち、かつて企業の指標統一やレガシーシステム撤廃による業務再定義を主導してきた。この「データを整え、構造化する」視点は、スポーツの現場にもそのまま通ずる。
実際、チームでは立ち上げ当初から、AIを用いたデータ分析・チーム強化システムを提供しているグループ会社のライブリッツ(東京都品川区)が、プロ野球などで実績を挙げたシステムをハンドボール向けにカスタマイズして導入した。
2025年11月には新練習場「Future Sports Lab」(フューチャースポーツラボ)をオープンした。将来的には複数台のカメラと大型モニターを備え、収集したデータをAIで分析する科学的なトレーニングを普及させようとしている。
映像を駆使した試合演出やファンサービスについても、先行するBリーグや海外の事例を、チーム創設当初からベンチマークしてきた。ITの知見を現場の戦略とファンの顧客体験(CX)に直結させる体制を着実に強化しているのだ。
500円の「獲得コスト」と、10万円のLTV設計
大内氏は「(チケット販売に関わる業務全般である)チケッティングは、事業を推進していくための最大のカギです」と断言する。
元エンジニアとして数々のビッグイベントの集客を、データ活用によって支援してきた大内氏は、有明アリーナのキャパシティと座席レイアウトを分析し 「超高低差のプライシング戦略」を導入した。
最も安価な小中高校生向けのシートは、わずか「500円」。これは目先の売り上げを追うものではなく、夏休み中の学生や家族など「将来のコア顧客」を呼び込むための顧客獲得コスト(CAC)としての投資プライシングだ。その一方で、最高額である10万円のVIP席「スーパークレイジー」まで、全12もの細分化した券種を用意した。
もちろん500円の座席を相当数用意しても「ペイ」するように計算をしている。気になるのは10万円という価格設定の根拠だ。これは2025年の最高値だった5万5000円のほぼ倍の額となる。
「今回は(スーパークレイジーを始めとした高価格の席に)試合とは別日に『PSGの練習見学に参加』できたり、練習後に『選手との写真撮影とサイン会』を設けました」。熱狂的なファンがお金を惜しまない体験を提供することで、LTV向上策を打ったのだ。
低価格で新規顧客の間口を広げながら、高付加価値なCXの提供によってLTVの上限を引き上げる。この緻密な傾斜プライシングによって、新規顧客と既存顧客の比率を、将来的には持続可能な割合へと収れんさせていくという。会場が満員になればなるほど、グッズや飲食の物販効率は跳ね上がり、スポンサーシップの媒体価値や配信権の価値向上へとレバレッジがかかっていく。
マーケターが学ぶべき「常識破りの生存戦略」
国内ではまだまだマイナーなハンドボールという「商品」を、若者を熱くさせる「ブランド」へと転換しつつある大内氏の試みは、マーケターにとって重要な教訓を示している。
新商品を市場へ投入する際、多くの企業は「目先の一時的な売り上げ」に一喜一憂し、全員が横並びの「平均点」(価格)で勝負しがちだ。しかしゲームのルールを変えるのは常に「他社がまねできない独自の構造設計」である。
データを見ながら、500円チケットによって新規顧客を開拓するための投資をし、10万円チケットによってLTVを最大化することで投資を回収する。ここまで計算し尽くすことがマーケターには求められるのだ。
「松脂清掃」のような現場の課題から目を背けず、泥臭いオペレーションによって競争優位性を構築することも重要だ。大内氏は「置かれている環境の中で最適化に努め、基本に忠実に全員で力を合わせていく。このやり方こそが、今のハンドボール市場を開拓する最大の近道です」と話す。
1分に1点が入る高速体験の裏側にあるのは、計算された「ビジネスの基本原理の遂行」そのものだった。
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