最後によかったなーと思える人生をオルタナティブな生き方 村上福之さん(2/3 ページ)

» 2012年02月21日 11時30分 公開
[鈴木麻紀,ITmedia]

 そのとき研究所の人が言ってくれた言葉を村上さんは今も忘れられない。その人は難色を示す上司たちを前に「(新入社員が書いた)動いているソースコードは、部長より正しい」と断言したのだ。この一言がきっかけになり、村上さん作のドライバーを組み込んだプリンターは正式に販売されることになった。

 このときの成功体験がそれからの自分の考え方のすべてだ、と村上さんは当時を振り返る。「実は、それまでにも何度か『自分に作らせてくれ』と上司に提案したことはあったんです。でも毎回却下されました。責任がとか、立場とか。目の前に無いものには、大人は難癖をつけたがるんですね。でもこのとき、動いているものを見せれば、大人は納得するのだと分かりました。新しいものを作るとき相手に何やかにや言われる前に実物を作って納得してもらうというぼくのやり方は、このときに確立しました」。


 実績が認められた村上さんに対し、昼から出社しても誰も文句を言わなくなった。プリンターの発売はしばらく先だし、それまですることがない。当然時間があまる、ヒマだ。そこで村上さんはまず、恋をした(のちに結婚)。

 それでもまだヒマでプラプラしていた彼を見かねた上司がある日、「ファイルシステム好きか?」と聞いてきた。「嫌いじゃないですよ」と答えたところ、いきなりSDメモリーカードプラットフォームのチームに異動することになった。

 当時はメモリースティックの全盛時代。最初は「SDカードなんか絶対売れないよ」と思いながらチームに加わった村上さんだったが、ドライバーを作ったり世界標準規格の仕様にかかわるうちに、だんだん考えが変わってきた。

 「近くの席の一見平凡な男性がDVフォーマットを作った人だったりするんです。世界中で使われているものだって、結局人間が作っているという事実をリアルに見ることができました。VHSも、mpegも、DVDも、ブルーレイも、MDも、全部全部日本が作ってきた。世界標準規格の世界からすれば、日本は神です」(村上さん)

 エレクトロニクスの世界標準を決める会議では出席者の半分以上が日本人だということはザラだ。そして彼らは私利私欲のためではなく、世界の役に立ちたいと本気で思って仕事していた。日本ってすごい、世の中を良くするために自分もがんばろうと思いながら村上さんは働いた。

 そしてある日、すぱっと会社を辞めた。

永住権、取れちゃった

 「疲れちゃったっていうのかな。離婚もしたし。それと、メーカーにいるとどうしてもたくさんの外注会社の協力なしには物を作れない。だけど、頑張ったら自分ひとりでもいい物を作れるんじゃないかな。世の中の役に立つものを作りたいなって思いました」(村上さん)

 そして村上さんが向かったのは、オーストラリアだった。

 オーストラリアを選んだことに深い意味はなかった。時間ができたので留学してみたいな、とたまたま飛び込んだ町の留学センターで勧められただけだった。しかし後年、彼はオーストラリアの永住権・技術独立移住査証(以降、永住権)を取得してしまう。

 プレMBAコースに入って、勉強をしつつ自然保護団体のボランティアを行った。寝袋を持って無人島に行ったり、山奥で木を切ったり。それはそれで楽しい日々だった。しかし親戚の不幸があり、村上さんは日本に一時帰国する。

 しばらく日本で過ごしてからオーストラリアに戻ったのだが、在籍していたコースもボランティアのプログラムも帰国中にすべて終了してしまい、彼にはすることがなかった。またしてもヒマを持て余す村上さん。そこで周りの人に「ワーキングホリデーって、何やったら1番エラいかなあ?」と聞いてみた。

 「この国の永住権取ったらエラいんじゃない?」

 なるほどなあと調べてみたところ、どうやらそうそう無理な話ではなさそうだということが分かってきた。当時オーストラリアの永住権は、年齢や学歴のほかに、「英語が話せる」「国が認める特別なスキルがある」「そのスキルを使った職業での実務経験が2年以上あり、かつ過去18カ月で無職の期間が半年以内である」などの条件を満たせば取得することができた。

 得意な「コンピューター・スキル」は国が認めるスキルの中に含まれており、実務経験もばっちり。あとは無職期間の問題だけだった。実はこの時点で、村上さんは前職を辞めてから5カ月経過していた。そこで職歴を得るために彼は通っていた語学学校にかけあってみた。この学校のシステムを作るので、雇ってくれないか、と。

 交渉は成立し、無職期間は半年以内に収めることができた。そこからWeb関連の技術を習得し、データベース開発なども受託した。後は英語を勉強したり、永住権申請のために裁判所に通ったり。ファームステイしたり、エアーズロックを見に行ったり、という若者らしいこともした。そして申請から1年3カ月後、永住権を取ることができた。しかしそのときすでに、村上さんは日本に帰国していた。

オーストラリアの砂漠で。シェアハウスビジネスの先駆けのようなこともした。

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