IT徒然草――コストと利便性を追い求めて失うもの何かがおかしいIT化の進め方(18)(3/4 ページ)

» 2005年07月28日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

デジタル化で失われる情報(2)

 画像を扱うメディアにも同じような問題が存在する。最近のデジタル化されたテレビの画像は、一見すると大変美しい。しかし、しばらく見ていると、何となく不自然であることに気が付く。

 美しく感じたのは、ノイズの少なさや見かけ上の解像度によるようだ。前述のウェーバー・フェヒナーの法則は視覚についても成り立つ。デジタル(量子)化・データ圧縮による影響であろうか、サッカーのピットや野球場の芝生はグリーンの油性ペンキを流したようにのっぺりした感じになっている。よく見ると、人の皮膚は微妙な陰影や細かいしわが消え、ファンデーションで塗り固めた厚化粧の肌のようだ。人の感情は顔の特定部位の筋肉の瞬間の動き(そのわずかな陰影)に表れるのだが、対談に登場する人の表情も何となく変化が乏しいように感じられる。

 近年、有名美術館の名画のデジタル・アーカイブ化が進められている。もちろん、この作業には最新のデジタル技術が駆使されている。しかし、レオナルド・ダ・ビンチのモナ・リザや、暗い背景に浮かび上がるレンブラントの自画像、雪舟の水墨画が描き出す幽玄の世界を記録し再現するためには、一体どのぐらいの情報量が必要なのであろうか。

 1980年代末、インスタント・カメラで有名な米国のポラロイドが同社のビジョン・リサーチ研究所の研究成果を踏まえ、さらにボストン美術館やシカゴ美術館の協力を得て、名画のレプリカの製作をしていた。画像をデジタル化し、画素ごとに厳密な計算によるカラー・マッチングを実施。色再現、階調の再現(注)を行うというものであった(2005年のいまなら、PhotoShopなど画像処理ソフトに実装されているトーンカーブやレベル補正、色相や彩度調整の機能を駆使すればよい内容か)。

コレクションの一部しか見ていないが、原寸大のレプリカの出来栄えはなかなかのものであった。絵の具の盛り上がりの感じやキャンバスの質感まで再現されていて、目を近づけてよく見ないと、平面上の画像とは思えない。物理的に見れば見事なレプリカである。しかし、何かが物足りない。ボストンの美術館で見た実物にはあった感動が感じられない。

 優れた画家や写真家は心をとらえる一瞬の画像を、被写体の感情が表れた一瞬の表情を画面に残す。これらは画面のどこにどんな形で表されているのであろうか。この部分についてだけは飛び抜けて多くの情報量の集中があり、高精密度の情報処理が必要なようだ。巧みに描かれた似顔絵は、わずかの“線”で驚くほど正確にその人物の特徴や表情を表している。絵画は画家と見る人との間での“感動・感情”のコミュニケーションである。人間の研究とともに、人間の特性を基本に置いたデータのデジタル化や処理方法が必要なように思う。


(注)
 ヨセミテ渓谷やグランド・キャニオンの美しいモノクロ写真で有名な、米国の写真家のアンセル・アダムスは、1930年代にモノクローム写真の分野で、“階調のコントロール・輝度域情報の数値化という概念”とゾーン・システムというこのための具体的な方法を完成させている。
 晴天屋外の風景で最も暗い部分と最も明るい部分の輝度の比は1:1000にもなる。しかし、写真のプリントとして表現できる限界は感光剤の特性から1:100程度しかない。被写体の持つ明るさを10段階(10ゾーン)に分け、最大輝度比1:1000の被写体の情報を輝度比1:100のプリントに最大限再現できるようにするための仕組みが、露光時間と現像時間の決め方として整理されている。


 今日、われわれが手にする製品に使われている技術は、長年の歴史の積み上げの成果である。画期的な技術が突然現れて、短期間のうちに画期的な商品となることは少ない。一方、その時々の研究成果から、その将来の活用を読むこともまた難しい。1930年代の“階調のコントロール・輝度域情報の数値化という概念”が、現在のデジタル画像処理技術の中核に生き続けていることは大変興味深い。

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