優れたシステムを作るための“思考力、人間力”とは?何かがおかしいIT化の進め方(53)(1/3 ページ)

前回は、アップルやボーイングの例を示しながら、「個々の要素技術を最適な形で組み合わせて全体を構成する技術」の重要性を述べた。今回はこの問題を少し掘り下げてみる。

» 2012年04月20日 12時00分 公開
[公江義隆,@IT]

他人が作ったシステムをうまく管理できない理由

 2011年7月、中国が「日本やドイツの技術をベースにはしたが、そこから独自に作り上げた技術で開発した」と豪語し、「特許申請する」とまで言っていた高速鉄道が大事故を起こした。事故の真の原因はわれわれには分からない。日本のメディアはやや嘲笑を込めて冷ややかに報道し、日本人の幾人かは溜飲を下げたのかもしれない。

 しかし、この4カ月前、日本で起こった福島第一原子力発電所の大事故は、これと同じ種類の問題をはらんでいたように私には思える。基本を他人の技術に頼った“接ぎ木の危うさ”だ。

 個々の部品・要素を見よう見まねで組み立てただけでも、ある程度のモノは作れてしまうため、人はそれで理解できたと思う。しかし、各部品・要素の選択、それらの組み合わせ方、それぞれに求める機能やその重要度などを決めているのは、全体の概念設計(Conceptual Design)である(注1)。これが製品やシステムの価値/特性を決定する。


注1:情報システムの分野でも、他人が作ったシステムのメンテナンスに手こづったり、うまくやったつもりでも、あとから「そんなことがしてあったのか」といったことに気付かされるようなことがあると思う。これらは元の設計者が「全体の構成や方式をどのように考えていたか」を十分に分かっていなかったためか、構成や方式に対する考え方の違いに起因する場合が多い。


 つまり、個々の要素やその技術は、その「機能・性能」、あるいは「部品」の姿として見えていても、単にその積み上げが「製品」や「仕組み」になるというものではない。この裏には、具体的にはなかなか見えにくい“全体をまとめ上げる概念”や、そのための技術が隠されている。

 この外から見えにくく、言葉で表現することもなかなか難しい暗黙知的な技術は、「全体の目的を的確に定義する力」「前提条件を適切に想定する力」「全体の設計思想や哲学、内包する相反事項、それぞれのバランスを取る能力」「適切な要素/部品を選択し、組み合わせて実現する最適化の能力/システム思考力」などから成り立っている。これらが、部品や要素(エレメント、コンポーネント)などを生かすための能力になる。

 商品開発の分野では、こうした力を総称して「デザイン力」とも言うようだ。経営分野で言えば、「内外環境の現状や将来を洞察する力」「自他の能力を的確に把握する力」「適切な戦略を設定する力」「効用とリスク(安全性)のバランスを取る力」「現場の力を生かす能力」といったことに当たるだろう。

 昨今、日本企業に対し「優秀な技術、現場を持ちながら、利益を生み出せない」という指摘があるが、以上のことと一脈通じる問題のように感じる。今回と次回は、日本の「新幹線建設」と「原子力発電」の2つを題材に、第52回『“影”から目を背けてきた原発とIT』で提起した、以上のような「技術に関する幅広い問題」について考察したいと思う。

システムとしての新幹線

 以上の問題意識を基に、「成功ケース」と言われる日本の新幹線について考えてみる。 以下で紹介する話から、「個別要素/部品の優秀性」や「導入技術の新しさ」などは、「それらを使って完成したものの価値」を直接的に決めるものではないということに、まず気付いていただきたいと思う。優れたコンセプト、基本設計があって初めて個々の要素や部品、技術の優秀性が生かされ、それらの改善が「それらを使って作られたもの」全体の進歩につながる――このことを感じてほしいと思う。また、「優れた製品やシステムを完成させるための人間力」について、思いを寄せていただけたらと思う。

 さて、1964年、東京オリンピックの直前に開業した東海道新幹線は、明治以来、営々と積み上げてきた日本の鉄道技術と技術思想、また鉄道技師の島秀雄らが第2次世界大戦の戦前戦後を通じて暖めてきた「広軌高速鉄道構想」と技術、そして病身にもかかわらず老骨に鞭打ち、「鉄路を枕に討ち死にする」覚悟で建設に臨んだ当時の国鉄総裁、十河信二の執念と政治力――これらの集大成として完成された巨大システムである。

 日本の鉄道網の整備は、明治時代、西欧先進国に早期に追いつくべく、「富国強兵」という国の方針と「和魂洋才」という文化土壌の下で始まった。明治5年(1872年)に新橋――横浜間、明治22年(1889年)に東京――神戸間(東海道線)が開通。明治24年(1891年)に日本鉄道(半官半民の会社)によって上野――青森間が開通した。

 この間にも、主に民間による鉄道建設が全国各地で進み、例えば、山陽鉄道が明治27年(1894年)に神戸――広島間、明治34年(1901年)に神戸――下関間を全通させ、30年弱の期間で本州の背骨となる幹線鉄道路が開通している。この後、明治39年(1906年)に鉄道国有法が制定され、多くの民間鉄道が国有化され、支線鉄道網として整備されていった。

 外国から技術者を招聘(しょうへい)し、西欧先進国の技術や輸入機関車などを利用して鉄道運営の初期段階を乗り越えた1900年代初頭には、日本は数社の車両製造会社を作り、自ら機関車を設計・製造する技術水準に達していた。多くの西欧諸国が広軌(標準軌/レール間隔143.5cm)を採る中、日本ではコストや地形などの国情から狭軌(106.7cm)を採った。これが高速化の足かせにもなっていたが、1960年には時速175キロメートルという、当時の狭軌世界最高速度を記録するまでの技術を蓄積していた。

 さて、こうした歴史の中で登場した東海道新幹線は、1950年代、在来の東海道線の輸送力が限界に近づく中、「将来の輸送需要増大にいかに対応すべきか」という問題の解決策の1つとして考えられたものだ。「建設計画の閣議決定」(1957年)、「路線増設工事認可」(1959年)、さらに「東京オリンピック開催(1964年)に合わせて営業運転開始」という“超特急スケジュール”で建設された。

 路線の決定、5万人に上る地権者との交渉を要した用地買収、トンネルや高架/橋梁などの土木工事、駅舎/その他の鉄道施設の建設、レールや保安設備の設置、車両の技術試験/確認、車両の仕様/利用技術の決定、車両設計/製造/試験、車内設備の設計/準備、ATC/CTCなど列車制御システムの検討/設計/開発、新幹線建設組織の設営、開業後の管理・運営組織の準備、要員訓練、国鉄内外の調整、予算の獲得(政官対策)、広報(注2)などなど、相互に関連し合う多岐にわたる課題を洗い出し、「新しい鉄道の全て」をわずか数年で作り上げたわけである。もちろん、こんな例は後にも先にもない。


注2:米国など諸外国の鉄道経営の不振から、「もはや鉄道の時代ではない」といった世論が渦巻いていたほか、関係者間で利害が複雑に絡み合っていたことから政官界や国鉄内からも「そもそも反対」「採算性/安全性への懸念」「在来の東海道線を順次複々線化して対応すべき」「狭軌論」など、あらゆる反対、批判があったという。


 なお、これ以前にも、鉄道の広軌化や高速鉄道建設は何度か検討されていた。直近は昭和14年、支那事変が拡大する中、輸送力増強のため、東京――大阪間を4時間半、東京――下関間を9時間、さらには朝鮮半島を縦断し、満州(現在の中国東北部)まで結ぶ計画もあった。しかし、それらはいずれも実現しなかった。考えてみるべきは「できなかった理由」ではなく「新幹線建設だけが成し遂げられた要因」である。言うまでもないが、“成功のためのハウツーを探る”といった問題ではない。

 次のページから述べる3つの側面から、「新幹線建設だけが成し遂げられた要因」を感じ取り、そこからすくい上げた考えを、自らが直面する課題に当てはめて考えてみていただければ幸いと思う。「何をやったか」のレベルではなく、それを「成し遂げたモチベーションは○○で、それはどこから醸成され……」といった具合に、深く突っ込んで考えてみると、いろいろと見えてくるものがあると思う。

 なお、私は「自分の頭で思考した結果こそが、応用や創造につながる」と考えている。よって、以降の文章は皆さんに思考を促すレベルにとどめ、“答”までは出していない。それは人それぞれで異なるものだからである。

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