どうやって“南極料理人”になったのか――南極越冬隊調理担当・篠原洋一さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(1/6 ページ)

» 2009年01月26日 00時15分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

嶋田淑之の「この人に逢いたい!」とは?:

 「こんなことをやりたい!」――夢を実現するために、会社という組織の中で目標に向かって邁進する人がいる。会社の中にいるから、1人ではできないことが可能になることもあるが、しかし組織の中だからこそ難しい面もある。

 本連載では、戦略経営に詳しい嶋田淑之氏が、仕事を通して夢を実現するビジネスパーソンをインタビュー。どのようなコンセプトで、どうやって夢を形にしたのか。また個人の働きが、組織のなかでどう生かされたのかについて、徹底的なインタビューを通して浮き彫りにしていく。


 第33次南極越冬隊の調理担当として1年3カ月に及ぶ南極生活を体験し、今また第50次隊の一員として日本を発った篠原洋一さん(1月13日に南極に到着したそうだ)。観測隊が南極でどのような生活を送り、どんなものを食べているのかをインタビュー前編ではご紹介した。

 南極での生活と並んでもう1つ筆者が知りたかったのは「どうやったら南極越冬隊に加われるのか?」という謎の答えだった。インタビュー後編では、篠原さんがどういう経緯で南極越冬隊員を志し、それをいかに実現していったのか、そして今次、再度、南極へと旅立ったその想いを明らかにしたいと思う。

“食”と“旅”が好きなどさん子

第33次、第50次日本南極地域観測隊の調理担当、篠原洋一さん

 篠原洋一さんは、1962年、札幌市に生まれた。牡羊座のA型。父親は薬の卸問屋を営み、母親はそれを手伝っていたという。 

 「子供の頃から、とにかく食べるのも料理するのも大好きだったんです。小学・中学時代、自宅で夜、勉強していて何が楽しかったかって、いろいろと研究して夜食を作るのが嬉しくって仕方がなかったですね〜」と、満面に笑みを浮かべる。

 「食」と並んで彼を夢中にしたもの――それは、「旅」だった。

 「新聞配達のアルバイトをしてコツコツと貯めたお金で、高2の時、18泊19日の日本1周の旅に出ました。札幌にいては決して味わえない、いろいろな出会いや経験をしました。まさに『百聞は一見に如かず』で、人生観が変わりました。人生というのは、耳学問でああだこうだ言っていてもダメで、自ら一歩を踏み出すことが何よりも大切なんだと痛感しましたね」

 百聞は一見に如かず。この考え方が、その後の篠原さんの人生を大きく切り開いてゆく原動力となっていった。ボーイスカウトの鉄道版とも言うべき「鉄道少年団」では、札幌市支部のリーダー格として各地の人々と交流を深め、社会性やリーダーシップを育んでいった。

 同時に、高校時代から、札幌の代表的な割烹の1つで、皿洗いのアルバイトを始めたという。「とにかく、食べること、作ることが大好きでしたから!」

 そうだとしても、なぜラーメンや洋食ではなく、割烹だったのだろうか?「テレビの人気ドラマの『前略おふくろ様』※の影響を受けたというのと(笑)、あとは、これからの日本は高齢化が進み、お年寄りが増えるから和食が良いって考えたんですよ」

※前略おふくろ様……1975〜77年、日本テレビ系列で放送。倉本聡原作、萩原健一主演。料亭を舞台にした青春ドラマ。

料理人修行時代――南極越冬隊員を志す

 高校3年の秋のこと。現場での篠原さんの働きぶりを見ていた料理長から、「高校を出たら店で働かないか」と誘いを受ける。

 「でも、それを聞いた2番さん(料理長に次ぐポジション)に言われたんですよ。『オヤジから入れと言われたらしいが、簡単に入れると思うな。誠意を見せろ』って」(笑)

 困った篠原さんは、3番さんに相談する。「ただ働きをするのもいいんじゃないか、と言うんですよ。なるほどと思いまして、冬休みの間、朝8時から夕方5時まで毎日、ただ働きをさせてもらいました。そして5時以降は、それまで通り皿洗いのアルバイト。5時までのその時間は、とても勉強になりましたね。基本的な調理実習をさせてもらえましたから」

 4月になると新入社員が何人も入ってきた。高校卒の同世代はもとより、専門学校卒の年長者もいたが、この世界では、1日でも早く入店した方が“先輩”だ。そういう意味でも、篠原さんはラッキーだったと言えよう。「このお店では、1年10カ月お世話になりました。その間、すごい出会いがありましてね……」

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