どうやって“南極料理人”になったのか――南極越冬隊調理担当・篠原洋一さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(2/6 ページ)

» 2009年01月26日 00時15分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

 それは、南極観測隊に参加したことのある北海道大学の先生だった。

 「オーロラの話を聞かせてくれまして。そして言うんですよ。『オーロラの素晴らしさは実際に見ないと分からない』って。それを聞いて『見たいなあ』と心底思いましたね」

 「百聞は一見に如かず。一歩を踏み出す勇気が大切」という人生観を持つ篠原さんの心が、強く揺さぶられた瞬間だった。

 「それでいろいろ聞いてみると、南極観測隊には、研究チームと設営チームがあって、設営チームに料理人として入れる可能性がある。その代わり、何でも作れるようになれって言われました」

 心は決まった。

南極観測隊入りを目指し、東京で修行三昧

 21歳になる頃、料理長の勧めで東京・歌舞伎町の割烹に移ることに。「『おい、ブー! 来週から東京に行け』って、言われました。突然(笑)」

 寮に入った篠原さんは、生まれて初めての東京暮らしを開始した。料理人の下積み生活は過酷だ。昔ながらの徒弟制度が色濃く残り、しかも長時間労働で、短期間で逃げ出す人も多い。しかしここで、彼は驚くべき行動に出る。

 「割烹での仕事が終わる午後11時から午前3時まで、ロッテリアで清掃員のアルバイトをしたんです。楽しかったですよー! 同世代の連中と話せるのは新鮮そのものでした。しかも昼間行くと、同じ年ごろの女の子たちもいっぱいいるし。普段は女性と話す機会なんてほとんどないですからね。自分がそれまで過ごしてきた環境とは全く異なっていて、視野が広がりました」

 2年数カ月在籍した篠原さん。今度は、名の通った某料亭に移る。「ここは厳しかったです! とにかくスパルタで(苦笑)。いつもオヤジについて回って、技を『盗む』日々でした」

 その約1年後、やはりお店からの紹介で、これまた由緒正しい割烹に移った篠原さん。「カウンターと小上がりだけの小さな割烹ですが、一見客お断りの店で、オヤジさんも京都の名料亭の出でした。私はここでフグ調理の免許を取らせてもらいました」

 ここでも彼は、驚くべき行動に出る。「毎週3〜4日ですが、朝5時まで、某居酒屋チェーンでアルバイトしていましたし、あといわし料理店でもバイトしましたよ」

 その目的は一体どこにあったのか?「それまで私は、4つの料亭や割烹で修行させていただき、懐石料理の基礎を学んできました。しかし、南極観測隊に加わるためには、懐石の技術を踏まえつつ、それ以外の料理のことも広く知っておく必要があると考えたんです。その点、居酒屋であれば、いろんな種類の料理を扱いますから、短期間で、いろいろと勉強できると思ったんですよ」

 成果は挙がったのだろうか。「ええ、1つの料理を作るにも色んなやり方があることを学びました」

 この時期に修得した、その場その場の状況に臨機応変に対応して調理する技術は、その後、南極生活で大きな力を発揮することになる。

 すでに26歳になっていた篠原さんは、南極の魅力に開眼させてくれた北海道大学の先生に電話した。もちろん、南極観測隊の隊員に志願するためだ。

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