最終回「優しい自由主義」のススメ山崎元の時事日想(2/3 ページ)

» 2009年04月30日 08時00分 公開
[山崎元,Business Media 誠]

 さりとて、金融業を政府に独占させると、資金配分を通じた資源配分の効率性は大きく損なわれるだろう(例えば、パイオニアのような経営失敗企業への公的資金注入を検討する最近の動きを見よ)。20世紀の経験だけで十分かどうかは判断が分かれようが、社会主義的な仕組みには、長期的な資源配分の効率が低下する問題があるし、政府の官僚による国民の大規模な搾取が生じやすい。特に、政府を交替させる仕組みがないと、官業が事実上の独占企業となってしまう。

 自由主義者が政府の関与を警戒するのは、何よりも、政府によるサービス取引は当事者にとって自発的に行われるものではないし(受益と負担が直接的に結びついていない)、政府の提供するサービスに関する情報も不十分であることが多いからだ。「福祉」を政府に任せることについても、その内容が不要であったり、行われ方が非効率的であったりする場合が多いだろうと心配する。

「不十分な知識」に基づく取引を抑止する

 自由主義に弱点があるとすれば、それは「不十分な知識」に基づく取引を抑止する仕組みが、単純な自由放任の下では育たないことだろう。自由主義を支えるためには、嘘つきがいけないことだとか、他人をだますのがいけないことだといった社会が持つ倫理観の強制力が必要だし、「市場」(ルールを含めて)の作り方に工夫が必要だ。この点に関しては、自由主義者にも献身が要求される。

 また、経済的な自由主義と弱者に対する福祉の実現も矛盾・対立するものではない。自由な取引による経済の活性化と、所得の再分配、即ち社会的福祉は、相当程度両立する(税率が100%になると両立しないが)。社会的に適切と判断された所得の再分配のために必要な税率が、30%であっても、40%であっても、「より多く働いた方が、よりよい生活ができる」というインセンティブは残る。肝心なのは、このインセンティブを福祉の受け手側でも持てるような制度設計だろう。「働くようになると打ち切られる生活保護」のような仕組みではうまくゆかない。

 よく「高福祉・高負担」と「低福祉・低負担」あるいは「中福祉・中負担」のどれがいいかという問いがなされる。この聞き方だと、「高負担」と「低福祉」がどれくらいの極端を指すのかが分からないし、漠然と中庸が無難だという心理が働くから(スターバックスでトールサイズが売れるのと同じ理屈だ)、「中福祉、中負担」を選ぶ人が多いだろう。低支持率の麻生首相の発言であっても、昨年、最初の経済対策の際に述べた、日本が「中福祉・中負担の国」を目指すべきだという話には異論を唱えた向きがほとんどなかった。

 筆者もまた、福祉はある程度大きくてもいいと思うが、その中身は個々の国民が選択できるようなものであってほしいし、具体的な福祉サービスの担い手は政府ではなく民間であることが望ましいと考える。

 具体的にいうと、受け取り側では、生活保護、年金、介護保険(によるサービス)など、お金を受け取る名目は、いちいち条件付けられていない方がいいし、介護や医療などの具体的なサービスの提供については、国や自治体が事業主体になるのではなく、自由な参入を保証された競争の下で民間が行う方がいい(政府と癒着する「政商」の排除は重要だが)。

 高福祉(大きな所得再配分)と大きな政府(大きな官僚機構)は必ずしも同義ではない。政府の規模(官僚の人数や人件費)を小さく保ったまま、大きな所得再配分を行うことは十分可能だ。端的に言って、現在公的に提供されているサービスを廃止して(例えば公的年金や雇用保険は廃止する)、その分の収入を直接所得の再分配に回すことで、世の中はかなり良くなるだろう。

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