なぜイチローは、この男に語り続けてきたのか35.8歳の時間・石田雄太(4/6 ページ)

» 2010年06月18日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]
シドニーオリンピックスタジアム前(36歳のとき)

 野球以外のスポーツを取材するときには、スポーツそのものの“勉強”が必要でした。そして一夜漬けで話を聞き、知らないことについては質問し、今思えば知ったかぶりの原稿を書いていたように思います。野球選手には「自分の言葉が届いているな」「相手の言葉が自分の腹に落ちているな」と感じていましたが、野球以外のアスリートの方々に話を聞いても、その言葉を咀嚼(そしゃく)してきちんと原稿に表現できているという手ごたえがありませんでした。やがて野球以外のことを書くことに、“限界”のようなものを感じるようになっていきました。

 シドニーオリンピックが終わり、イチロー選手がメジャーへと挑むことが決まってからは、野球の取材が中心となる生活を送ることになります。結果的には、シドニーが自分の中での区切りとなったのかもしれません。いつしか、ボクは自分が好きな野球だけを追いかけていこうと腹をくくっていました。ボクにとっての36歳というのは、自分の進むべき“細い道”を、見つけることができた年だったように思います。

ボクが見た1年目のイチロー選手

 そして2001年、イチロー選手はメジャーリーグへの道を選びました。ボクも彼の取材をするために米国と日本を何度も往復したのですが、その渡米に際しては、一切、仕事の約束をしないようにしていました。なぜなら、経費をもらってアウトプットを前提にした取材を引き受けてしまうと、必ず焦りが出て、相手にそれが伝わると思ったからです。メジャー1年目のイチロー選手が自分のことで必死なのは当然だと思っていたし、目先のことを優先するよりも長い目で考えたほうがいいと判断したのです。話をしたくないということであれば聞かなくてもいい……ただ近くで見ているだけでいいと思っていたのです。だから、こちらから何かをお願いするということを、1年目には極力、しなかったと思います。「ボクはイチロー選手を見るんだ、できるだけ近くで見るんだ」――徹底してそういうスタンスを貫きました。

 もちろん、食事に誘ってもらえれば、一緒に行きました。そのときも、野球の話では気が休まらないからと、他愛もない話が多かったように思います。ただ、彼のほうから野球の話をしてくれることはありました。そういうときでも、聞いた話はすぐに書きません。これは今でもそうですが、どの話を書いて、どの話は書くべきではない、という見極めはとても難しいと思います。

 原稿を書かなければいけない……となると、どうしても次から次に質問をしなければなりません。しかしそうなると、選手にしてみれば鬱陶(うっとう)しいと感じることが増えるでしょう。だからボクは、自分の中の義務感を排除しました。事前に原稿を書く約束をして、経費などを負担してもらうと、それが結果的に自分のクビを締めることになるかもしれないと思ったのです。

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