「朝日、オリコン、裁判所」ともあろうものが。35.8歳の時間・烏賀陽弘道(4/7 ページ)

» 2010年07月30日 08時00分 公開
[土肥義則,Business Media 誠]

 東京の繁華街の真ん中でドラッグが堂々と売られていることを、なぜ大手企業メディアは報道しないのか。答えは簡単で、そういうネタを担当する新聞記者は、それがネタだという発想がもうない。彼らはかつてのボクのように、「警察担当」として上野なり新宿警察署のクラブに詰めている。売人が逮捕され、警察が発表すれば、彼らは「警察のアクション」として書くかもしれない。しかし記者クラブから数百メートルしか離れていないとこでドラッグが買えるという「警察は動かないが、日常的な現実として存在する事実」は、彼らには記事のネタではない。そういう取材手法があることを記者の動作として認識してないんです。

 ボクがしたことは「政府の秘密文書を入手する」といった難易度の高い作業ではなく、変装して公園に行っただけ。これは発想の問題です。「人と違う発想をするかどうか」――たったそれだけの違いが、記事の違いになる。そんな簡単なことですら、新聞記者はもうできない。発想がオリジナルな記者はいるかもしれませんが、少なくとも紙面には表れない。毎日、いつかどこかで見た記事が紙面を埋め、読者はうんざりする。記者にも読者にも不幸なことです。

35〜36歳のとき、念願の海外勤務

アエラの駐在記者としてニューヨークに

 35〜36歳にかけては、アエラの駐在記者としてニューヨークに派遣されていました。学生のころに「新聞記者で海外勤務、署名記事を書き送る」という夢を見ていましたのですから、図らずも週刊誌記者でそれが実現したわけです。

 ニューヨークでも、さまざまなテーマを取材しました。1998年の着任早々、円ドル相場で戦後最大のドル下落が起きたので、記事を書きました。それまで国際通貨のことなど書いたことがないのに、着任早々いきなり英語で取材をして、ベテラン金融記者のような顔をして書くわけです。なんとも罪深いことですが(笑)。もちろん読者はそんな言い訳は認めてくれません。ベテランだろうとルーキーだろうと読者には関係がない。また東京から「マイケルジョーダンが引退するから書け」と命令されれば、取材して書いたりもしました。

 もちろん大半は自分で企画した記事でした。例えば、当時はITベンチャーブームだったので、なぜ米国にはたくさんのITビジネスが生まれ、日本には育たないのか、という内容の記事。シリコンバレーやシアトルを訪ねてベンチャー業界をインタビューして回りました。アマゾンやスターバックスの社長も会いましたよ。またベンチャー企業に資金を提供するベンチャーキャピタルも取材しました。当時の日本でベンチャーキャピタルはまだ黎明期だったので、彼らがどのように資金を集め、どのようにして投資しているのか、内容を書きました。

 「この記事はボクでないと書けない。そんな記事を書こう」「そうでないとボクが書く意味がない。他の誰かがやればいい」と自分に課していた。読者からは「こんな記事は、ほかで読んだことがない」といった手紙やメールをたくさんもらった。そんな瞬間がいちばん記者冥利に尽きましたね。

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