日本酒作りは、杜氏を頂点とする蔵人たちによって行われる。彼らは元来、季節労働の出稼ぎ集団であったという。
「日本酒業界では、伝統的に出稼ぎの杜氏・蔵人の方々に酒作りを任せてきたのですが、それだといくつか問題点がありました。
彼らは、自分のワザを盗まれてしまうと仕事を失いかねないので、ワザを教えたがらないのです。要するに、彼らに任せ切りにしている限り、酒蔵に“技術移転”はなされません。そのため、蔵元側から『こんなお酒にしてほしい』という要望を伝えることはできますが、あまり細部にまで口出しはできず、隔靴掻痒(かっかそうよう)の感が常にぬぐえませんでした。
それともう1つ、出稼ぎの人たちは年配の方が多くて、杜氏が代替わりでもすれば、お酒の味が変わってしまうというリスクが存在しました。そこで1988年(中野さんが中学に入学した年)、中野BCでは業界でも先駆けとなる“社員蔵人制”を導入したのです」
本来であれば、杜氏を含めて総入れ替えしたかったところだろうが、社内に技術の蓄積がない以上、まずは蔵人、そして杜氏というように時間をかけ、段階を踏みながら、進めていかざるをえなかったようだ。
社員蔵人制はその後急速に全国各地の酒蔵に導入され、今では当たり前になっているが、さすがにこの時は、日本酒業界の伝統的な製造プロセスを根本から覆す試みということで、杜氏組合を含め、業界内から強烈な反発があったようだ。中野さんは「弊社のような、新しい酒蔵だからこそ、できたことではないでしょうか?」と振り返る。
ちなみに、1988年に入社した新卒の社員蔵人は、全国新酒鑑評会で7度の金賞を受賞した但馬流の一流杜氏・瀧野氏のもとで、13年に及ぶ修業を積んだという。
日本酒製造プロセスの次なる革新の時は不意に訪れた。
「2001年、出稼ぎの季節労働で来てくれていた杜氏さんが、高齢ということもあって、突然倒れてしまったのです」
これは同社にとっては正念場であった。人材育成の視点から言えば、社員を杜氏にするには、少なくともあと数年は必要であったし、だからと言って、ここでまた新たな出稼ぎ杜氏に任せるようでは、同社の革新は後退してしまう。
ここで白羽の矢が立ったのが、同社の食品化学研究所(リサーチセンター)に勤務する我藤伸樹氏であった。「酒作りを6年程度手伝っただけの研究者が杜氏になっても蔵人が付いてこない」と我藤氏は何度も固辞したが、戸惑いながらも結局受諾。
「彼は、高い技術力に基づく“知恵”が重視されて指名されたのです」
会社の狙いは当たった。「消費者の嗜好(しこう)は、淡麗から濃厚へと変わりつつある。酒作りのあり方を変えないと市場での地位を失ってしまう」と判断した我藤氏は、麹の製造方法を抜本的に変えた。「そんなことをして大丈夫なのか?」といぶかる蔵人たちの心配をよそに同社の日本酒は高く評価され、全国の酒好きたちに認知されていく。
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