2005年8月、いよいよ中野幸治さんが入社する。マーケティングや経営戦略、人事などを担当したが、翌年からは自らが杜氏として、3年間にわたり日本酒部門を指揮することになった。ここで、中野さんは、業界の環境変化を見すえた大きな決断をする。
「日本酒業界は停滞・衰退が続いていました。私はその要因として、紙パック商品に代表される低価格のお酒を、大量に製造し販売する業界のマス志向があると考えていたんです。そうした商売の仕方でしかも日本酒だけしか作っていない蔵元は、どんどん経営不振に陥っていました。
1日も早く、そうした流れを断ち切り、時代の新しいニーズに適合したやり方へ思い切った方向転換をしないといけない。そこで社長に直訴して、それまでの機械生産主体の日本酒製造を手作り中心に戻そうとしたんです」
すでに社員蔵人制、社員杜氏制を採用し、「自分たち自身が責任をもって酒作りをするのだ」という気風がみなぎっていた同社では、早速、中野さん指揮の下、手作りによる新しい純米酒作りに取り組んだ。
こうしたでき上がったお酒が「紀伊国屋文左衛門」である。地元・和歌山出身の伝説的な豪商の名を冠したことからも、「このお酒を通じて和歌山のお酒の魅力を全国の人々に伝えるのだ」という自負と、郷土への愛情が感じられる。
実際、評価は高かった。国際市場における日本酒に対する理解と認識を向上させることを目的とする「International SAKE Challenge」第2回大会で、「紀伊国屋文左衛門<しぼりたて生原酒>」は銀賞、「紀伊国屋文左衛門」は銅賞を獲得したのである。
中野さんが入社した当時、機械7に対し手作り3という比率だった日本酒生産が、今では機械3に対し手作り7という比率へと逆転しているという。
現在は「梅酒事業の売り上げが5年間で25倍増」が売り文句となっている中野BCではあるが、こうして同社の歩みを見てみると、梅酒事業の躍進のはるか以前から、非連続・現状否定型の自社革新を実現し続けていたことが、今さらながら再確認される。
まずは1988年の社員蔵人制、続く2001年の社員杜氏制導入によって、同社は日本酒業界で製造プロセスの革新を実現した。そして、社員杜氏第1号の我藤氏は生活者の嗜好の変化を読み取り、麹の製造革新を成し遂げた。さらに、中野幸治さんが日本酒業界衰退の原因を分析し、それまで機械生産主体だった日本酒作りを、手作り中心へと転換することに成功した。
こうした革新を恐れない企業風土が前提として存在したからこそ、その後の梅酒事業の成功があったということは認識する必要があるだろう。
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