作品内容が変わることはない――宮崎駿氏らが語る、大震災と新作『コクリコ坂から』(1/6 ページ)

» 2011年03月28日 22時05分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

 3月11日に発生した、東北関東大震災から2週間。地震だけではなく、それによって引き起こされた津波のために死者・行方不明者は2万人以上、原子力発電所の事故の影響で経済活動も停滞しつつある。一部のテレビ広告などがいまだ自粛を続ける中、「娯楽は控えよう」という雰囲気も漂っている。

 しかしそんな中、「映画を提供することこそが自らのやるべきこと」とあえて宣言したアニメ制作会社がある。それは『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』など数々のヒット作品を生み出してきたスタジオジブリである。7月16日公開の最新作『コクリコ坂から』の主題歌『さよならの夏』の発表の席で、宮崎駿氏や鈴木敏夫プロデューサーらが作品や震災の影響などについて語った内容を詳しくご紹介する。

左から宮崎吾郎氏、武部聡志氏、坂田晃一氏、手嶌葵氏、万里村ゆき子氏、宮崎駿氏。宮崎駿氏は『コクリコ坂から』では企画・脚本なのだが、写真撮影の時にはなぜか「監督こっち向いてください!」と言われていた

映画『コクリコ坂から

原作は作画・高橋千鶴氏、原作・佐山哲郎氏の少女漫画(少女漫画誌『なかよし』に1980年1〜8月号まで連載)。東京オリンピックの前年である1963年の横浜を舞台に、帰らぬ船乗りの父を待つ少女と、少年との交流を描く。監督は『ゲド戦記』の宮崎吾朗氏、企画・脚本は宮崎駿氏。テーマソングの『さよならの夏』(万里村ゆき子作詞、坂田晃一作曲、武部聡志編曲)を手嶌葵氏が歌う。7月16日公開。


私たちはアニメーションを作っていくという自覚を持っている

宮崎駿(企画・脚本) 「この時期にこういう発表会をやるのがいいのかどうか」という問題があったのですが、「あえてやろう」と思いました。今この時も埋葬されないまま、瓦礫に埋もれているたくさんの人たちを抱えている国で、しかも今、原子力発電所の事故で国土の一部を失いつつある国で、私たちはアニメーションを作っていくという自覚を持っています。

 それで、停電になっても自分たちはとにかく仕事を続けよう。なぜなら、郵便配達の人は郵便を配っているし、どんなに渋滞が起こっても、バスの運転手はバスを放棄しないで乗っているので、我々も仕事を続けようとなりました。ただ、コンピュータ関係(のセクション)は停電時には混乱が起こるので、いろいろ考えて夜勤体制にしましたが、絵を描く方は停電になっても窓際で書けるので、鉛筆と筆のセクションは、とにかくそのまま仕事を続けるという体制でやってきました。

 今、この歴史的な事件をはさんで、「自分たちの作ろうとしている映画が、時代の変化に耐えられるかどうか」というのが僕らの最大の関心でした。僕はこの映画の企画と脚本しかやっていないので、映画の出来上がりについてはよく分かりません。分かりませんが、「今、この企画を自分たちが作っていたのは間違いではなかった」と思っています。

 映画の企画について、簡単に説明します。これは30年前、僕がたまたま1人で山小屋にいる時に出会った、その時はまだ小学生だった姪たちが残していった少女マンガから思いついた企画なのですが、それからもう30年経っています。それで、「少女マンガがアニメーション映画になるかどうか」ということを友人たちと議論をしました。「『コクリコ坂から』という作品を映画にしたい」と思って、いろいろ考えました。

 考えましたが、『コクリコ坂から』の中に学園紛争というものがあります。ただ、学園紛争が30年前にはもはや古めかしいものと映る時代になっていたので、企画としては断念しました。断念しましたが、その後もずっと僕の心の中に引っかかっていました。ただ、折に触れていろいろ考えていたのですが、ある時たまたま森山良子さんのCDの中に入っていた『さよならの夏』という歌を聴きました。随分前の日本テレビのドラマの主題歌だったそうなのですが、「ああ、(『コクリコ坂から』の)主題歌までできてしまった」と思ったんです。

 この2〜3年、企画をやらなければならなくなったのですが、「今まで自分たちが作ってきたファンタジーを作る時期ではない」と考えました。「では、何を作るか」ということを模索してきて、その模索の1つが実は40年以上前に読んで引っかかっていた『借りぐらしのアリエッティ』となったのですが、今回も30年前から暖めてきた『コクリコ坂から』を映画にすることにしました。

 『コクリコ坂から』は原作と違って、僕がアニメーターになった1963年、東京オリンピックの前の年を舞台にしています。そのころ若者たちは、自分がエアコンのある家に暮らしたり、エアコンのある職場で働いたり、自動車を持つようになったりするとは夢にも思っていなかった。そういうことを願っていた人はいますが、「小さいけど4畳半の下宿でいいんだ」と思っていました。僕も無理すれば何とか買えたかもしれないですが、ラジオもテレビもない下宿にいた記憶があります。

 その時に自分たちが「どう生きようと夢見ていたか」ということと、「どういう風に生きられたか」ということはまた別のことです。『コクリコ坂から』は「どういう風に生きようと願っていたのか」ということを形にしました。(信号)旗を毎朝あげている少女と、海からやってくる少年の出会いという話なのですが、私のシナリオが遅れてしまったために、製作は非常にしんどいことになっています。(実際より)2カ月早く僕のシナリオが終わるはずだったのですが、これがなかなか難産で、スタッフ全員に迷惑をかけてしまいました。今、制作している最中ですが、僕らは今の時代に応えるために精一杯作ろうと思ってやってきました。

 (主題歌の)『さよならの夏』は森山良子さんがもう少し若ければ、森山良子さんに歌ってもらいたいと思っていたのですが、若い人に歌ってもらわないとならないということで、新しい歌い手の人に歌ってもらうことになりました。坂田晃一先生(『さよならの夏』の作曲家)を始め、作詞をした方(万里村ゆき子氏)も、みなさんがこの歌をもう1回、全然中身の違う映画に使うことを許していただいて、本当にありがたく思っています。

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