震災直後の、学校の対応は適切だったのか吉田典史の時事日想(2/4 ページ)

» 2011年05月06日 08時00分 公開
[吉田典史Business Media 誠]

 学校は一級河川・北上川から200メートルほど離れた低地にあり、河口からは4キロほど離れている。これまでにこの地域が大きな津波に見舞われることはなかったという。しかし、あの日、津波は河口から川を逆流し、学校を襲った。

 毎日新聞と産経新聞の記事をもとに当日の状況をまとめてみた。この2社の取材が真相に迫る点では抜きん出ている。

 3月11日の地震の後、校内は停電になった。先生の指示で児童は校庭に集まった。怖かったからなのだろう、泣き叫んだり嘔吐(おうと)したりする児童もいたという。このあたりを走る路線バスが数年前に廃止されているため、一部の児童らはスクールバスで登下校をしていた。さっそく、教職員はこのバスに下校する児童たちを乗せようとした。

 産経新聞(4月15日)は、こう報じる。『校庭には、離れた地域の児童を送るためのスクールバスが止まっていた。「今、校庭に並んだ子供の点呼を取っているところで、学校の指示待ちです」。男性運転手(63)は運営会社に無線で連絡した。これが最後の通信。男性運転手も津波で死亡した。会社側は「詰め込めば児童全員を乗せられただろう」としている。市教委は「津波の際、どこに避難するか特に決められていなかった」という』

 これを読むと、「非常時に点呼をしていていいのか」という疑問が湧いてくるかもしれない。そのあたりをこの地域の公立小学校に勤務する教諭に取材してみた。

 「教職員のこの時点までの対応は正しい。私が勤務してきた学校では、地震の時は揺れがおさまるまで身の安全を確保し、揺れがおさまればすみやかに運動場に避難することになっていた。運動場に出れば、すぐに点呼。担任の教師は、クラス全員がそろっているのを管理職に報告。ここで問題になるのは、迎えに来た親たちに児童を引き渡すときの手順と確認の方法。教師たちが気をつけていることは、1人も行方不明を出さないこと。ただ、私が勤務してきた学校はいずれも避難場所になっていて、そこから先の新たな避難場所は決めていなかった」

 ここで考えるべきことがある。報道によると、教職員らは学校から逃げる場所を決め、そこに避難する訓練はしていなかった可能性がある。学校そのものが避難場所だったのだ。毎日新聞(4月18日)には、それを裏付ける校長の証言が載っている。校長は当日、中学生の娘の卒業式に参加するため、小学校にはいなかった。

 『柏葉校長は大震災2日前の3月9日に県内で震度5弱を観測する地震があり「改めて逃げ場を探さなければならない、PTAの力を借りて裏の山に階段を付けようか、という話が持ち上がっていた」と明かした』

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