野馬追の当日、浪江町の住民の一時帰宅が行われていた。南相馬市の馬事公苑が、バスに乗り込む発着地点になっていた。一時帰宅を終えた人たちに話を聞いた。
「おふくろの荷物、土地の権利書、礼服等を持って来た」という、桑原泉さん(49)は、避難先の茨城県つくば市からやって来た。「屋根がもう腐っている」と、帰宅の感想を述べた。
震災当日は、浪江町内で仕事をしていた。そのため一旦、帰宅したが、「家がぐちゃぐちゃ」だったために、車の中で寝ていた。しかし翌日、避難指示が出る。
「私と妻と三女は、山形へ行ったんです。次女が大学に進学しており、下宿があったから。その後、もう戻れないと思い、長女が大学に通っているのと、会社の事務所があるためもあってつくば市へ行った」
桑原さんの仕事は、原発の放射線測定だ。会社はつくば市にもあり、引っ越すことにもなった。現在は、つくば市近辺の上水道等の放射線量を測っている。
会津若松市に避難している愛沢清一さん(70)と智枝さん(65)は、保険の証書などを持って来た。家の中には草が生え、「もう住める感じではない」(智枝さん)「クモの巣だらけ」(清一さん)と話す。
家族は5人。清一さんと智枝さんは浪江町津島の避難所へ、娘や息子、孫は川俣町へ避難した。その後、4月15日からは、ホテルで避難生活をする。
「仮設住宅に入っていって、いろいろなものをもらっているけど、いざ生活をしてみると、足りないものが多い」(智枝さん)、「年金でやっと生活をしている。地震だけならとっくに自宅に帰っているのに。東電の原発事故のせいで帰れない。トップの判断が問われているんじゃないか。原発に憤りを感じる」(清一さん)
製薬関係の仕事で、須賀川市から仙台の事務所に通っている男性は、「草が1メートルくらい生えていた。畑も、道路もみんな雑草だらけ。屋根は壊れていた」という。
震災当日は、南相馬市小高区で仕事をしていた。会社は海側にあるが、社屋は無事だった。しかし周囲の住宅が津波の被害にあった。高台に逃げたが孤立した。翌朝、山側へ避難するよう指示があり、何も持たないで川俣町に避難した。
「震災だけであれば、応急処置ができただろうけど、原発事故のためにできないし、お墓のお骨が見える状態で、ひどい。仕方がないといえば仕方がない。でも、戻れればいいな。来年は子どもが高校受験。戻れれば、原町高校(南相馬市)を受験させようと思うが、無理であれば、中通りの高校を受験させるかを考えている」
政府や行政に対しても「もっとはっきりと情報を出してほしい。仮設住宅も2年だが、それ以上延びた場合、どこで生活をすればいいのか。中通りも線量が高いので、また避難になるのか」と不満を持っている。
「(久しぶりに家に戻ったら)猫が爪を研いだ跡があった」という横山信広さん(55)は2回目の一時帰宅だった。1回目のときは会社(金型工場)の関係で入ったが、そのときは家に寄る時間はなかった。今回はテニスラケットや夏服などを持ち出して来た。
「地震で機械の一部は倒れたものの、作業はできる状態にある。ただ、放射能のために入ることができない」
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR注目記事ランキング