この周辺は東京電力福島第一原子力発電所から30キロ圏内。当時は物流がストップし、コンビニも開いておらず、新聞配達もされていなかった時期だった。
「30キロ圏内だからって、俺は行かないぞ。だって、どこさ行くの? ここにいろよって思う。マスクしたって、そんなもので命が救われるのか? 救われっか? 俺、そう思う。そういうのに負けないんだ。正しい気持ちを持てっつーの。俺はそういう主義だ」
この時期、30キロ圏内は「屋内退避指示区域」だった。4月21日から「計画的避難区域」と「緊急時避難準備区域」に別れたが、渋佐さんは動じない。
「地区には津波の被害があった。でも、この地域は負けたわけじゃないんだ。相馬魂だ」
相馬魂があれば、この地域はなんとかなる――そんな思いが渋佐さんにはあったのだ。ただ、事故直後は、野馬追の開催が心配されていた。渋佐さんもそれを気にしていた。規模を縮小したが、なんとか伝統を絶やすことなく、開催に至った。
7月24日、太田神社では神事が行われた。妻は福島市に避難しているという南相馬市原町区の男性(57)はこう話す。
「毎年見に来ている。野馬追は1000年余続いていた無形文化財だが、それができなくなったのは原因がある。それを無視して、これからの復興は考えられない。(原町区は警戒区域ではないが)他人ごとではない。忘れられるのは問題だ。原発は人間が制御できないのが問題。子孫を含めて、この地域がちゃんと住めない環境になるのかどうかを考えると、恐ろしい」
また「本来であれば、行列があるのにな」と眺めていた、原町区の吉田孝明さん(44)はこう話す。
「自宅は20キロ圏から外れているので、いつでも入ることができる。しかし農作物は作れないし、仕事もない。県民はモルモットだよ。ここで作った野菜はもう売れない」
25日の多珂神社では、相馬行胤総大将と、全域が警戒区域に含まれる小高郷と標葉(しねは)郷の騎馬会員82人が県内外の避難先から集まった。警戒区域から持ち出した陣笠や陣羽織を身に着けて参加していた。
祭りの中では、津波の犠牲になった小高郷騎馬会員の蒔田匠馬さん(20)の遺影を前に、慰霊の礼螺(れいがい)が吹かれていた。
匠馬さんは地震当時、専門学校にいた。地震がおさまると、生徒たちは解散になった。その後、匠馬さんは小高区に住む祖父母の家に向かう途中で被災した。祖父母も津波で流され亡くなった。匠馬さんと祖母は見つかったが、祖父は見つかっていない。その3人で撮った成人式の写真が遺影になっている。
「祖父母の家に行った時にはいなかった」そう語る父親の保夫さん(42)は、遺体が見つかった場所を考えると、「あと2、3分早ければ高台へ行けたのではないか」と想像する。「家に帰れないので、まだ被災中。現在進行形だ」とも話した。震災後、石神小学校へ避難した。その後、大学に進学している次男がいる東京へ避難。郡山市の民間の借り上げ住宅に住んでいる。一時帰宅はしていない。
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