「『フリーになったことだし、ひょっとして営業活動とかしないといけないのかなあ……』と思っていた矢先、JTB時代の先輩(男性)から電話があり、同社が主催する大きな観光イベントの司会を任されたのはありがたかったですね」と当時を振り返る。
プロダクションに所属していたころから、一味違った仕事のこなし方を意識してきた倉橋さん。フリー第1弾のこの仕事でも本領を発揮する。
「民放キー局などのアナウンサーと同じことをやっていても勝負にならない。自分にしかできない独自色を打ち出していく必要があると、その時考えたんです」
倉橋さんは、大学時代に旅行会社で添乗員のアルバイトをしていたころのことを思い出した。あのころはお客さんに喜んでもらうためには何でもやった。お客さんの荷物を持ってあげたり、お土産屋からただで商品を提供してもらってお客さんに配ったり、お客さんと一緒にお風呂に入ったり、ほかの添乗員が決してしないことをしたことから、リピーターが続出した。
JTB時代だって同じだ。支店のカウンターで接客している時、お客さんになってくれた方々にお礼や誕生日などのレターを手書きで送ったり、そんな依頼を受けていないのに、自主的に旅行情報を調べて資料を送ってあげたりした。そんな先輩社員たちがやらなかったようなことをした結果、感激したお客さんたちが倉橋さんを指名して来店するようになった。
ほかの誰にもない倉橋満里子の独自性はまさにここにある。そう倉橋さんは自覚し、フリーアナウンサーとしての仕事も、そのスタンスでやっていこうと決意する。
結果的にこの観光イベントの仕事は成功を収め、その評判はクチコミで広がって、九州や北海道からも「名古屋の倉橋さんに頼みたい」という依頼が舞い込むようになったという。好評を得られた具体的要因について彼女はこう説明する。
「発注側からの要望がなくても、来場するお客さんが知りたいと思うであろう情報を事前に把握して、自主的に調査や下準備を重ねます。本番では、たとえ台本にはなくても、それをお客さん目線で分かりやすく伝え、お客さんにも発注側にも、『期待を大きく上回った』と思っていただけるようにするよう努めました。原稿がないことも多いので、自分でそれを作る能力も要求されますね。
同時に、こうしたイベントはチームワークで成り立つものですから、スタッフひとりひとりにキチンとごあいさつします。また、アナウンサーだからと言って自分の仕事を限定するのではなく、『アナウンサーがそこまでやらなくたっていいのに』と思えるようなことでも、積極的に手伝って、全スタッフとのコミュニケーションを促進することを大切にしました」
彼女のこうした姿勢のなせるワザか、ギャラも次第に上がっていった。プロダクション所属時代に1日1万円だったものが、1日3〜4万円になり、やがて5万円になった。それが、さらには10万円となり、時には30万円という仕事までもらえるようになった。
「29〜30歳のころには、JTBでチームリーダーをやっていたころの年収を上回るようになりました」と倉橋さんは言う。
しかし、そんな彼女に転機が訪れる。
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