カルカー原発が稼働することなく廃止となった直接の理由は政府による原発撤退の決定だが、その背景にはドイツとオランダで盛り上がった反対運動がある。カルカー市議会が原発建設に同意したのが1971年。その2年後にはオランダの「アムステルダム・反カルカー委員会」がカルカーで1万人規模のデモを遂行している。1991年に政府が廃止を決定するまで多くの反対運動が続けられ、もちろん、1986年のチェルノブイリ原発事故が決定的な契機になったことは言うまでもない。
カルカー原発はドイツのエネルギー政策に関わる事柄であり、事業の決定権はドイツ政府にある。しかしながらカルカーはオランダとの国境に近く、ライン川がオランダに流れてゆく関係上、同時に国をまたぐ国際的事案となった。
日本の原発も事故が起これば海外に影響を及ぼすという意味で国際的な管理責任を負っているが、陸続きの場合は影響がより直接的だから、もはや一国の事案として扱うことは許されない。ドイツのエネルギー政策でありながら、オランダの反原発団体がカルカーでデモを行ったのはそのためだ。
35億ユーロ(3768億円)もの巨費をつぎ込み建設された原発が結局不要のものとなり、払い下げ価格はわずか0.1%。天文学的な規模のブラックジョークにしか思えないが、脱原発プロセスの痛みということだろうか。
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