「人は常に坂に立つ」――生きる意味を考える(4/4 ページ)

» 2012年03月02日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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この一生は「期限付き」の営みである

 そんな尊い生命は、とても“か弱い器”でもあります。仏教では、人の命を草の葉の上の朝露にたとえます。少しの風がきて葉っぱが揺れれば、朝露はいとも簡単に地面に落ちてしまいますし、そうでなくとも、昇ってきた陽に当たればすぐに蒸発してしまいます。それほどはかないものであると。

 スティーブ・ジョブズは伝説のスピーチで「今日で命が終わるとすれば、今日やることは本当にやりたいことか?」と問いました。私はこのスピーチを聞くと、吉田兼好の『徒然草』第四十一段を思い出します。第四十一段は「賀茂の競馬」と題された一話です。

 京都の賀茂で競馬が行われていた場でのことである。大勢が見物に来ていて競馬がよく見えないので、ある坊さんは木によじ登って見ることにした。その坊さんは「取り付きながらいたう眠(ねぶ)りて、落ちぬべき時に目を覚ますことたびたびなり。これを見る人、あざけりあさみて、『世のしれ者かな。かくあやふき枝の上にて、安き心ありて眠(ねぶ)らんよ』と言ふに……」。

 つまり、坊さんは木にへばり付いて見ているのだが、次第に眠気が誘ってきて、こっくりこっくり始める。そして、ガクンと木から落ちそうになると、はっと目を覚まして、またへばり付くというようなことを繰り返している。それをそばで見ていた人たちは、あざけりあきれて、「まったく馬鹿な坊主だ、あんな危なっかしい木の上で寝ながら見物しているなんて」と口々に言う。そこで兼好はひと言。

 「我等が生死(しゃうじ)の到来、ただ今にもやあらん。それを忘れて物見て日を暮らす、愚かなることはなほまさりたるものを」

 人の死は誰とて、今この一瞬にやってくるかもしれない(死の到来の切迫さは、実は、木の上の坊主もはたで見ている人々もそう変わりがない)。それを忘れて、物見に興じている愚かさは坊主以上である。

 医療技術の発達によって、人の「死」が身近でなくなりました。逆説的ですが、死ぬことの感覚が鈍れば鈍るほど、「生きる」ことの感覚も鈍ります。仮に現代医学が不老不死の妙薬を作り、命のはかなさの問題を消し去ったとしても、人の生きる問題を本質的に解決はしないでしょう。なぜなら、よく生きるというのは、どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ多くを感じ、どれだけ多くを成したか、で決まるものだからです。

 この一生は「期限付き」の営みです。その期限を意識すればするほど、今日1日をどう生きるかが鮮明に浮き立ってきます。

 哲学や宗教は「死の演習問題を通して、生を考えること」とも言われます。それほど生死(しょうじ)の問題は、人間にとっての一大テーマであり続けてきました。若いうちは誰しも、老いることも、ましてや死ぬことも考えられません。ですが、仕事や日常生活で悩みや停滞があればあるほど、こうした大きなテーマ――生きていることの驚きや有難さ、そして必ずやってくる命の終わりのこと――に考えを巡らせる時間をとることで、逆に卑近な問題やイライラは和らぎ、消えていくことでしょう。

 私は毎朝、散歩を欠かしません。近所の雑木林で見る日々の植物の変化や、日差しの移り変わり、野鳥たちの移動、気温の上がり下がり……それら生と死、盛と衰、陽と陰の「大きな波の往復」「大きな変化の環」を感じることは、「大きな力」を得ることでもあります。みなさんもぜひ、そういう暇(いとま)を作ってみてください。知らずのうちにホコリや油分で曇っていた眼鏡レンズをふき取った時のように、世界が鮮やかに生き生きと見えてくると思います。(村山昇)

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