「ただちに問題ない」は正しい判断? 政府は危機をどう伝えるべきか(2/3 ページ)

» 2012年06月26日 08時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

不確実な情報でも出すべきか

高橋 今までの話の中にも含まれていたとも思うのですが、今回はとても不確実性の高い情報が満載だったわけです。炉心の中がどうなっているのか分からないし、炉外に漏れた放射能がどう影響するのか分からない。しかし、住民の方には何らかの行動を起こしてもらうなり、対策をとってもらわないといけない。そういう危機時に、どんな情報を出したらいいのか。

 そこで会場に聞きたいのですが、危機が起きた時に自分が官房長官だったとしたなら、「不確実な情報は出さない方がいい」と思う人は赤色の紙を、「不確実であってもこういう時は情報の量が必要で、それはあとで整理させればいいんだ。とにかく政府は包み隠さず今ある情報は全部出すべきだ」と思う人は黄色の紙を挙げてください(観衆が赤色や黄色の紙を挙げる)。

塩崎 黄色の紙の方がちょっと多いですかね。これだけメディアが発達していますし、いろんな媒体もあるので、情報を出して、そのフリーマーケットの中できちんと精査していくべきではないかというのは、基本的な考え方としては私もその通りだと思います。

 ただ、さっき言ったレトリックの世界ではパニックになるリスクがあるギリギリの時、私が本当にその場にいたら、パニックを回避するための判断をしてしまうことがあるのではないかとも思います。

 例えば、「原子炉がメルトダウンする確率が1%あります」という情報が入ったとします。これをそのまま開示していいのかどうか。これは出した瞬間に、原発の周りに住む人たちはわーっと逃げ出すような情報ですが、それを出すことが政治の責任者としてあるべき姿なのかどうか。そこはすごく難しい問題だと思います。私だったら、出さない場面もあるんじゃないかと率直に言って思います。

大塚 関連する話題として、神戸で「」というスーパーコンピュータが作られていて、これからいろんなシミュレーションができるようになります。これから起こるかもしれないことを今まで以上に精度良く予言できるようになるので、そういう情報発信をどのように進めるかというワーキンググループを作って検討を進めています。

出典:富士通

 議論はまだ中間段階なのですが、だいたい合意されていることとしてはコンピュータによるシミュレーションに限りますが「すべての結果は隠さないで出すのがいい」と。

 ただ、そうすると世の中の人はどれを信用したらいいのか分からないので、その時点ではベストと思われる知識を持った集団が「これが一番この中では確実性が高い」と評価する。それが2つに分かれていたら、「これとこれは起こりえることかもしれない」と評価する。個人が評価するのではなく、その段階での最高知を集めたようなところが評価するという仕組みを作っておかなければいけないのではないかという議論をしています。もしSPEEDIの時にそういう仕組みがあれば、多分、SPEEDIの結果もすぐに公表されて、変な方向に避難することも起こらないで済んだのではないかと思います。

 同時に原発事故後、いろんな人がそれぞれにシミュレーションされていて、非常に精度の高い結果とちょっと怪しい結果が画像としては同じようにネットに流れたわけです。流すのは勝手なのですが、そういうのはあまり望ましくないと思いますので、それに対してある評価をするということも同時に重要ではないかと考えています。

塩崎 ある情報を出すか出さないかということで議論しているのですが、出し方にも実はいろいろバリエーションがあります。

 アリストテレスは、人を説得する方法には3つの要素があると言いました。情報を出すか出さないかの議論に加えて、論理による説得(ロゴス)、感情による説得(パトス)、本来持っている人格の信頼性による説得(エトス)の3つの要素をどう組み合わせるか、そういったいろんな要素も含めて、誰が出すか、どういう風に出すかというところもリスクコミュニケーションの大事な要素なのではないかと思います。

高橋 私たちメディアも日々いろんな情報を発信するのですが、私の場合は論説委員室という部署に所属していて、毎日会議をするんですね。その会議の中でも、同じ論説委員でも担当している専門分野や管轄が違うので、ある部分については非常に冷静な議論を提示される方が、例えば東京電力の問題になると、はなから「けしからん」となって議論が紛糾してしまって、なかなか冷静な議論ができなくなることがあります。

 議論としては非常に活発化して面白いのですが、塩崎さんがおっしゃるように必ずしもロゴスだけではなかなかまとまっていかないというのは小さな単位でも起こりますし、ましてや社会や日本という枠組みになってくると非常に難しくなります。

 そこで、誰が発信するかというキャラクターの問題も結構大事になってくるんじゃないかと思います。もちろん、そのキャラクターには情報を発信したり、その行動全体の施策を仕切ったりする責任が発生するのですが。

 今、原子力規制の問題をめぐって、原子力安全・保安院と原子力安全委員会をいったん廃止して、新しく原子力規制庁を作り、その上に原子力規制委員会を作るという話になっていますが、「いざという時、前面に立って、全体の判断をし、指揮をし、コミュニケーションをとるのは誰か」ということが議論になっています。

 「政治家が責任をとるべきだ」と主張される方と、先ほど大塚先生がおっしゃったように「独立した専門の委員会が専門知を発揮して、その知見に基づいて動くべきだ」と主張される方がいます。これについて、ご意見があればお聞かせ願えないでしょうか。

大塚 それはどういう決断をするかにもよるのではないかと思います。今回の原発事故の避難の仕方というようなことになると、それは専門知だけでは済まないことがあると思います。これはやはり政治家の問題で、専門知の集団は可能な限りベストの情報を出すことはしても、決断まで委ねてはいけないと思います。それに近いことは去年、何回か起こったか、起こりかけたのではないかと私の印象ではあったのですが、やはり政治家がよくそういう専門家の助言を聞いて、最後は決めていただかないといけません。

 一方、技術的なことはもちろん専門家の方が決めるのがいいわけです。原子力規制庁の問題では、原子炉の安全性だと、要求する安全性のレベルを決めるのは政治だと思うのですが、それをクリアしているかどうかを判断するのは専門知の問題だと思います。そこに完全に線を引けないこともあるかもしれないですが、一応そういうスタンスでやっていただかないといけないのではないかと思います。

高橋 会場にもお聞きします。原子力発電所の過酷事故が起きた時、「政治家が前面に出るべき」と思う人は赤の紙、米国の原子力委員会のように「権威を持った科学者の集団がいろんな見解を出してそれに基づいて行動するべき」と思う人は黄色の紙を挙げてください(観衆が赤色や黄色の紙を挙げる)。黄色の紙が多いでしょうか。

塩崎 専門技術が関わる事故については、やはり専門的な知見は大事なんだろうということですね。

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