多死社会の入口で感じた「悲しくて楽しい」こと郷好文の“うふふ”マーケティング(2/3 ページ)

» 2012年10月11日 10時00分 公開
[郷好文,Business Media 誠]

病院では死ねなくなる

 まずどこで看取られるか。病院ではなくなる。

 2011年度に37.8兆円となった国民医療費、毎年1兆円以上のペースで増えている。国民皆保険制度は崩壊寸前、医療も二極化して「払わざるもの受けるべからず」の兆候が出ている。保険制度の維持のためにも、病院医療から在宅医療にシフトせざるをえない。

 在宅医療とは「在宅看取り」でもある。

 確かに殺風景な病院で死ぬより、自宅で庭の花や糸瓜(へちま)の葉っぱのうつろいを眺めながら逝った俳人正岡子規のように死にたい。母は外も見える個室でまだよかった。病棟には熱帯魚やステレオ、ピアノのある談話室もあった。手づくり教室も開かれた。手慰みのプリザーブドフラワーづくりを、母は案外喜んでいた。

 胃ろう(食べられない患者のお腹に穴を開けて、胃へチューブで栄養を送る)で死を無闇に延ばすことは避けたい。在宅の雰囲気で逝きたい、逝かせたい。「治療・介護付きの高齢者住宅」が注目されるのはそのためだ。

 死ぬ間際にはどんなサービスがほしいだろうか。

最期まで女でいたい

筆者の母 筆者の母

 母は最期まで女だった。意識がしっかりしていたころ、私に「顔剃り用のカミソリ」を買ってこいと命じた。ネイルケアのヤスリもあった。呼吸が苦しく満足に話せない死ぬ3日前にも、ラメ入りのネイルカラーを塗ってあげると喜んだ。だから死後にネイルをしてあげた。

 死ぬ1日2日前にはしきりに氷をほしがった。小さなキューブアイスはスライスアイスになっていった。かき氷シロップも買ってきた。死ぬ2時間前には「洗髪する?」と訊くと頷いたので洗っていただいた。本当はお風呂に入りたかっただろうな。看取り後も母らしい派手な豹柄のパジャマのままにしてもらった。

 医療の本質は「生にこだわる」ことだが、それだけじゃない。

 外科的治療や薬剤投与など延命サービスと、介護や看取りという尊厳サ―ビスも必要である。「治療、介護、看取りをバランスよく」が、これからの医療になっていく。施設というハードも変わる。働く人の機能も変わる。医師免許も看護師免許もその教育も変わらざるを得ない。

 それはまた「ぼくらの死生観も改めなさい」ということでもある。

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