企業人として考えるか、消費者として考えるか――モラルジレンマを考える(3/3 ページ)

» 2012年12月21日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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現実の自分を高台から見つめる「もう1人の自分」を作れ

 では、この「組織人格」と「個人人格」の葛藤を超えて答えを出すためにどうすればよいのか。それには、高台から現実の自分を見つめる「もう1人の自分」を作ることだ。その「もう1人の自分」は、単なる客観を超えたところで、「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な主観を持っている存在である。モラルジレンマに遭遇したとき、その彼(彼女)が現実の自分を導いていく──これが最善の形である(次図)。

 ちなみに、その自己超越的な「もう1人の自分」について、能楽の大成者である世阿弥は、『風姿花伝』のなかで「目前心後」という言葉で表している。世阿弥によれば、達者の舞いというのは、舞っている自分を別の視点から冷静に見つめてこそ可能になる。そのために、「目は前を見ていても、心は後ろに置いておけ」と。つまり、前を向いている実際の目と、後ろにつけている心の目、この両方をたくみに使いこなすことが重要であるとの教えである。なお、世阿弥は同様のことを「離見の見」とも言い表している。

 もちろん、「もう1人の自分」の導いた判断が、ビジネス的成功の観点からまずい結果に終わり、一企業人としては失敗者の烙印を押されることもあるかもしれない。だが、その判断は「自分は何者であるか/ありたいか」という根源的な次元から出てきたものだから、本人に悔いはないはずである。心身へのダメージは比較的軽く済むだろう。むしろ恐れるべきは、「高台のもう1人の自分」を作ることができず、2つの人格の間で、自己喪失したり、自己欺瞞に苦しんだりする日々を送ることだ。

 バーナードが著した『経営者の役割』はすでに経営の古典的教科書の1つになっているもので、1938年の刊行である。同書が、経営者が直面すべき道徳性について少なからずの紙幅を割いているのは、担当する業務が経営のレベルに上がっていけばいくほど、個人は道徳的緊張と価値観の乱立にさらされることとなり、人格の崩壊や道徳観念の破滅が起こるリスクが高まるからだ。実際、当時から経営現場ではそれが数多く起こっていた。

 昨今の職場でも、メンタルを病む人間が増えていることが社会問題化している。実は、「キレの思考」ができる人間ほどそのリスクが高くなる。物事が客観的に見えすぎるがゆえに、自分の論理が、事態収拾のためにどんどんねじ曲げられ、破たんしていくことに精神が耐えられなくなるのだ。

 また、企業の不正事件もあとを絶たない。高度な専門能力を持った担当者が、巧妙な手口で組織に利益を誘い込む。その担当者は、自分の中の「組織人格」が肥大化し、組織の論理・組織の都合だけで違法な手段を実行してしまう。それはもはや一市民・一良識人としての「個人人格」の制御が失われ、組織の僕(しもべ)と化した知能ロボットのように見える。

 私たちはマルチロールな(複合的な役割の)存在である。もし、モノロールな(単一的な役割の)存在であれば、物事の思考はラクになる。が、その分、判断も経験も人生も薄っぺらになるだろう。幸いなるかな、私たちは多重的に複雑な役割を担った存在である。その時に大事なことは、「自分は何者であるか/ありたいか」の主観的意志を持つことである。ただ、この主観的意志は客観を超えたところの主観である。世阿弥が言うところの「我見」ではなく「離見の見」である。さて、あなたはこのボックス・ティッシュ開発においてどんな意思決定をするだろうか──?(村山昇)

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