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» 2013年01月22日 08時00分 UPDATE

アニメビジネスの今:マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのか (5/5)

[増田弘道,Business Media 誠]
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裕福な家庭環境

 手塚が育った家庭環境の基礎を作ったのは祖父の太郎だろう。恵まれた知的環境については陸軍軍医だった曾祖父の良庵から受け継いだと推測されるが、父の後を継がず法律家となった太郎が手塚家に及ぼした影響は大きいと思われる。

 太郎は1862年、江戸で生まれた。『陽だまりの樹』に登場する父の良庵は医者だったが西南戦争に従軍、赤痢にかかり1877年に亡くなる。今と違って医者の家庭でも決して経済的に万全の環境ではなかったようで、16歳の太郎は一時的に困窮したとある。太郎がなぜ医学の道に進まなかったのか知る術はないが、10代から東京外国語学校(のちの東京外国語大学)でフランス語を学んでいた事実を見ると、明治維新以降の欧化主義の影響を受け、それによって立身出世を図ろうとしていたようだ。

 1880年、外国語学校を主席で卒業した18歳の太郎は、司法省法学校第三期正則科に編入学する。ここはフランス法の信奉者である江藤新平の肝入りで司法省内に設置された、司法官養成のための法学校。太郎は修業期間8年の正則科二期生に編入することになるが、4年間で4分の3が脱落するという猛烈なエリート養成校の中には将来の日本を背負って立つ数多の人材が集まっていた。

 太郎と同じ二期生には首相になる原敬、近代的ジャーナリストの嚆矢である陸羯南(くが・かつなん)、大審院長(最高裁判所長官)になった鶴丈一郎、三期生には日銀総裁になる水町袈裟六、明治大学学長になる木下友三郎、四期生には首相になる若槻礼次郎などのメンバーがいたが、ここで太郎は自分の運命を決定づける人間と巡り会う。それはフランスから司法省顧問として招かれていた法律学者ボアソナードである。

 パリ大学助教授のボアソナードはその時55歳、司法省で法学教育を行いながら正院法制局、外務省顧問、元老院、陸軍省などの顧問も勤め、さらに私法の基本法として最も重要な民法典の起草案を委託されるという来日以来最も多忙な時期にあった。

 ボアソナードが日本の学生に対する教えで最も強調したのは、ナポレオン法典の基本である「法の前の平等」「私的所有権の不可侵」「個人の自由」「信仰の自由」といった個人の尊重で、「何人も害すなかれ」という自然法の精神と重要性をことあるごとに法学校の生徒に説いた。この師のもとで法学校も主席で卒業した太郎だが、その先には限りなく不透明な未来が待ち受けていた。

 ボアソナードが日本に招かれたのは、日本の司法制度にフランス法を取り入れようとする機運が高まっていたため。しかし、後押ししていた司法卿の江藤新平が征韓論に破れて下野し、1874年に佐賀の乱を起こし、捕えられて斬首刑となってしまった。

 江藤の次に司法卿になった大隈重信はイギリス法の推進者で東京帝国大学法学部にイギリス法学派を起用したため、司法界は司法省法学校のフランス法学派と東京帝大のイギリス法学派に分かれてしまった。そしてさらに三権分立や議院内閣制を唱える両派に対し、岩倉具視、伊藤博文、井上穀らはプロシア型の立憲君主制を目指して対立、薩長閥の力をバックに大隈とその一派を追放してしまった。これがいわゆる明治十四年の政変だが、これにより伊藤博文が参議兼参事院議長として政権の中枢となったため、司法界全体も一気にドイツ法学派にシフトしてしまった。

 そのあおりを食った司法省法学校は完全に傍流となり二期生を輩出しただけで、1885年に廃校となり東京帝大に吸収された。一期、二期の卒業生58人は司法省で浮いた存在となり、ある者は中央から離れ、地方の判事や検事として任官、またある者は明治法律学校(明治大学)や和仏法律学校(法政大学)を設立するなど、それぞれの道を歩むことになったのである。

 ボアソナードも10年間に渡って心血を注いだ民法、いわゆるボアソナード法典が1890年に公布されたものの4年間に渡る民法典論争の果てに、結局施行されないまま実質的に廃案となり、1895年に失意の内に母国へと去っていったが、その誠意あふれる人柄と法律に対する情熱は万人の認めるところで、外国人として初めて勲一等瑞宝章が贈られたのであった。

 司法界におけるこの変化はもちろん太郎にも大きな影響を与えた。司法省法学校を卒業した太郎はその後、母校、東京法学校、東京帝国大学の講師などを務めた後、千葉始審(地方)裁判所に2カ月ほど勤め、1886年に司法省法学校の先輩である井上操に呼ばれて大阪始審(地裁)へ赴き、6年間に渡る判事生活を送ることになる。

 その在任期間中に法学校時代の同士とフランス法学を伝えるべく関西法律学校(関西大学)の創立にも参加することになる。晩年、太郎が生まれ育った東京ではなく、関西に終の棲家を構えることになったのもこの赴任の影響があると思われる。

 その後、太郎は大津地裁検事正、函館地裁、仙台地裁、大阪地裁と地方任官を務め、名古屋控訴院(高裁)検事長となり、1923年1月に長崎控訴院院長の地位で定年を迎えることになる。政府の方針転換で傍系を歩まざるを得なかったとはいえ、裁判官としての暮らし向きは、司法資格を持つ手塚太郎が高級公務員であったことは間違いなく、控訴院長としての年俸は5800円、現在の感覚だと2500万〜3000万円ほどだったので、かなり恵まれた経済環境にあったものと思われる。この経済力がその後の手塚家の文化的環境を形成していくことにもなる。

文化的な手塚家

 「治虫少年はマンガ家になる上で恵まれた家庭環境にあった」と指摘する人は多い。世界の名作から落語や漫画などの豊富なライブラリー。地元の劇場だけではなく、大阪まで出かけて封切洋画映画を見られるだけでなく、当時としては貴重だったムービーカメラや映写機も所有していた。こうした文化環境を作り上げたのが父の粲(ゆたか)である。

 粲は太郎が仙台地裁に赴任している1899年に生まれた。太郎は37歳で、生まれたばかりの長男を亡くし、娘ばかり3人続いた後にようやく生まれた男の子である。粲は父の転勤に伴い各地を転々とした後、1918年に中央大学法学部に入学、ボート部の主将を務める一方、カメラや漫画を趣味とするモダンボーイだったという。この多彩な趣味が後年、治虫少年の文化環境に大きな影響を与えることになるのである。

 大学を卒業した1921年、粲は大阪の名門、住友財閥系の住友倉庫に入社する。法曹界へ進まずホワイトカラーの道を選んだ粲だが、実は当時の大卒一流企業サラリーマンは裁判官や弁護士より恵まれた生活を送っていた。財閥系の大企業の部課長クラスになれば大臣クラス以上の年俸になるほどの経済的ステータスがあったのである。

 住友倉庫に入社した粲は、その後、中核企業の住友伸銅鋼管(住友金属、現・新日鐵住金)に異動になる。治虫が生まれたころの住友伸銅鋼管は不況から立ち直ったばかりだったが、すぐにロンドン軍縮があり景気は後退。しかし、1931年の満州事変以降、軍事色が濃くなるにつれて会社の業績も次第に伸びていく。

 粲も忙しい日々を送っていたと思われるが、手塚は「一家の生活水準は高く、家族で近くの宝塚新温泉や歌劇に出向き、遊園地で遊んだ。クリスマスには宝塚ホテルで食事をするハイカラな家庭。当時の宝塚はピアノの普及率が全国一で、手塚は大学生時代、隠し芸でピアノの独奏を披露したこともあった」(前掲の神戸新聞)という余裕ある暮らし振りだった。

 このような余裕のある生活が幼かった治虫に与えた影響は大きく、高価な漫画全集や文学全集、落語全集や講談全集や絵画、音楽などの芸術分野の書籍、さらに『キング』『アサヒグラフ』『新成年』といった一般雑誌から『漫画倶楽部』まであった。さらに、銀座の十字屋が1921年から輸入を始めたパティベビーというフランス製映写機が自宅にあった。手塚はこの手回しの映写機で米国の短編喜劇、ミッキーマウスの漫画映画、チャップリンの映画などを見ていたのだ。

 ここまで家庭環境における文化的、経済的側面を主に見てきたが、手塚の進路については母親を抜きにして語ることはできないだろう。陸軍中将の娘に生まれた母親の文子はストーリーテラーとしての才能や激しい競争心といった性格を手塚に分け与えたが、その最大の功績は何よりも息子が医者の道を断念してマンガ家になることを認めたことにある。

 当時の常識から考えるならば医者の道を歩んでいる学生がマンガ家になることはほとんどありえないこと。その意味で文子は「マンガの神様」「アニメの神様」誕生の最大の功労者かもしれない。

増田弘道(ますだ・ひろみち)

1954年生まれ。法政大学卒業後、音楽を始めとして、出版、アニメなど多岐に渡るコンテンツビジネスを経験。ビデオマーケット取締役、映画専門大学院大学専任教授、日本動画協会データベースワーキング座長。著書に『アニメビジネスがわかる』(NTT出版)、『もっとわかるアニメビジネス』(NTT出版)、『アニメ産業レポート』(編集・共同執筆、2009〜2011年、日本動画協会データーベースワーキング)などがある。

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