マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのかアニメビジネスの今(4/5 ページ)

» 2013年01月22日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

手塚が育った地域環境

 手塚が育った文化環境を紹介してきたが、ここからは生まれ育った地域環境がどのような影響を与えたか見ていきたい。

 手塚は1928年に大阪府豊能群豊中町(現在の豊中市)で生まれ、5歳の時に宝塚に引っ越すことになるが、幼年期から青年期にかけて大阪とのつながりは深い。

 江戸時代に“天下の台所”と呼ばれ、商業・金融の中心だった大阪は幕末・明治維新期に一時期衰退したものの繊維業を中心とする近代的製造業の展開によって目覚ましい回復を遂げた。“東洋のマンチェスター”と呼ばれ、19世紀末から20世紀初頭にかけて日本の工業センターとして君臨し、戦時体制に突入する1930年代半ばまで全国1位の工業生産を誇っていた。

 そんな大阪が合併によって面積が一挙に3倍、さらに市域の第二次拡張によって人口211万人となり、関東大震災のダメージが抜けきらない東京を抜いて日本第一の都市(世界第6位。東京は200万人で世界第7位)となったのは手塚が生まれる直前の1925年のこと。大阪が“大大阪(だいおおさか)”と呼ばれるようになった時代に手塚は生まれ育ったのである。

 急速な人口の過密化や工場の排煙などで環境の悪化が深刻な問題とされた1923年、大阪市会が満場一致で市長第一候補者に推薦したのが、東京高等商業学校教授から大阪市高級助役に招かれ、“大大阪の恩人”と市民から敬愛されていた関一だ。

 第7代大阪市長となった関は、1921年から始まった第一次都市計画事業の指揮を執ったが、その目玉は1926年開始の梅田から難波まで一直線に結ぶ43.2メートル、長さ4470メートルに渡る御堂筋の建設であった。完成まで11年もかけた御堂筋は地下鉄とともに大都市大阪の象徴となり、沿道には阪急ビルディング、大阪ガスビルディング、そごう百貨店、大丸百貨店、南海ビルディングなど当時の最先端をいく高層ビルが建ち並び、その風景はまさしく“未来都市”であった。

 中でも手塚の記憶に深く刻まれたのは1937年にできた東洋初、世界で25番目のプラネタリウムを併設した大阪電気科学館。この建物は手塚のマンガにもしばしば登場することで知られているが、館内には電気の性質や発電の仕組み、科学的なトリックなどが展示され、そのとりこになった手塚は何度も訪れたという。

手塚治虫は阪神間モダニズムの申し子

 手塚が画風を含め、ハイカラ指向であったことは多くの人々が指摘するところである、それにはいわゆる“阪神間モダニズム”が大きく影響していると思われる。

 「六甲山系をバックに広がる阪神間は明治以降、鉄道網の整備に伴って発展した。阪急電鉄の前身『箕面有馬電気軌道株式会社』は1907(明治40)年に創立され、三年後には宝塚線の営業を開始。沿線は別荘地や郊外住宅地として開け、大阪の商人らとともに、芸術家や外国人が移り住んだ。西洋文化の浸透とともに美術、文学、音楽、娯楽といった独特の『阪神間モダニズム』が芽生えた。手塚が宝塚で過ごした二十年間は、ちょうどその隆盛期と重なった。しゃれた街並みと伝統に縛られない自由な発想。阪神間の文化に詳しい夙川学院短大教授の河内厚郎が『手塚はモダニズムから育った最初の天才で、まさに申し子』と断言する」(「手塚治虫のメッセージ」/神戸新聞2002年1月6日)

 手塚と同世代で阪神間モダニズムの人間といえば、関西学院で学んだ高島忠夫や藤岡琢也などの俳優が有名だ。高島はこの年代の男性としては珍しくミュージカルのセンスを持ち、藤岡は日本有数のジャズコレクターという典型的モダンボーイである。また、その上の世代としてはケンブリッジ大学に留学し、敗戦後は吉田茂の懇請でGHQとの重要な交渉役を担った白州次郎や、日本を代表する映画評論家の淀川長治などがいるが、この文化的ルーツは西欧文化の西玄関であった神戸から発せられるハイカラ性にあった。

 手塚治虫が5歳から住み始めた宝塚はもともと温泉地として名を知られていたが、阪急電鉄創立者の小林一三の肝入りで大正時代から急激に発展する。

 手塚が豊中から引っ越した1930年当時、宝塚はまだ川辺郡小浜村という小村に過ぎなかったが、温泉や宝塚少女歌劇がある、にぎやかな郊外リゾート地で、同時に中産階層が住む新興住宅地でもあった。大阪などから移り住んだホワイトカラーが多く、小さいながらも郊外のユートピアで中産階級者の楽園となり、同時にリゾート地の側面も持っていたため、その規模に比べて驚くほど多彩な娯楽、文化施設があったのである。大正末期には、温泉に付随する旅館やホテルを始め、ルナパーク(レジャーランド)、動物園、熱帯植物園、子供遊園地、科学遊園地、昆虫館、映画館、ゴルフ場といった施設に年間100万人以上が訪れるほどだった。

 当時の宝塚を代表する文化建造物は、宝塚歌劇団のホームグラウンドの宝塚劇場だ。1924年竣工、4000人収容のこの劇場は東洋一の規模を誇っていたが、惜しくも1935年に焼失。だが、徒歩数分で行ける距離にあったこの劇場を治虫少年は何度も訪れていた。

 そして、宝塚劇場と並んで宝塚のランドマークだったのが宝塚ホテル。1925年に誕生したこの8階建ての高級リゾートホテルは、宿泊や飲食だけではなく、英国の大学や軍隊などの親睦団体である「Gentlemen's club」に範を取った宝塚倶楽部がある文化施設だった。

 宝塚倶楽部は阪急沿線に居を構える中産階級、ホワイトカラー層や地元の名士を対象とした社交の場で、飲食はもちろん、囲碁将棋やビリヤード、テニス、弓道、ゴルフなどのスポーツでの交流が行われていた。手塚の父が宝塚倶楽部に所属していたかは不明だが、一家がしばしば宝塚ホテルで会食を楽しんだのは確か、手塚の結婚式もここで行われている。

 「郊外のユートピア、中産階級の楽園」だった宝塚。手塚が生まれたころ、宝塚で夜の娯楽として最も人気があったのはダンスだった。手塚誕生の2年後の1930年、宝塚ホテルは中州二丁目に約100坪という広さのダンスフロアを開業。一度に300組600人が踊れる規模とその豪華な内装、最新の設備から“東洋一の舞踏の殿堂”と評され、流行の先端を行く当時のモダンボーイ、モダンガールの間では、「宝塚会館で踊って、宝塚ホテルで泊まる」のがおしゃれとされた。

 豊かな自然と最新の文化が同居している郊外のユートピア。手塚の祖父太郎が隠居のための選んだ宝塚は、孫にとって誠に恵まれた地域環境であったようだ。

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