私たち日本人は欧米のグローバルエリートたちから見ると全くもって不可解な存在である。話をしていても一切、返事をすることがない。やたらとニコニコとうなずきながら聞いているので「これはもう同意したのだな」と話を切り上げようとすると、突然、ものすごい勢いで懐から出したメモを英語で読み上げ始める。しかもその内容はこれまで行った話を必ずしも踏まえたものではなく、あらかじめ書いて持ってきたもの。「ニッポン人は全くワケが分からない」……そういまだに思われているのである(きっと多くの読者の皆さんがグローバルな現場で多かれ少なかれ経験していることと思う)。
なぜこのようになるのかには、たくさんの理由がある。中でも決定的なのは、私たちが共通の了解が比較的多い社会に暮らしているということだ。こうした社会のことを「ハイコンテキストな社会」と呼ぶのだが、そこでは共通の了解があるため、論理(ロジック)をもって話し相手を説得する必要が生じない。話の結論は常にあらかじめ存在する「共通の了解」から導かれるのであって、議論は一切必要ないのだ。
従って言葉巧みに話すことが訓練されない代わりに「想う」ことについては本来、日本人は非常に長けている。「茶道」「華道」「柔道」という時の「道」とは、それぞれの分野での小手先の技術や知識を学ぶことに意味があるのではない。黙って「想う」ことを通じて、自然、そして宇宙と一体化することにその本質があるのであって、まさに「右脳の世界」に属するのがこれら「道」なのである。
インスピレーションが出て来るのが右脳であり、それを相手に分かるように論理で再構成するのが左脳。そうである以上、このプロセスの「主人」は右脳なのであって、これにおいて比較的優位なのが日本人である以上、本来ならばこれからの世界は日本人が取り仕切るといっても過言ではないはずなのだ。
ところがそうはなっていないことには1つの大きな理由がある。それは高度経済成長を終え、成熟した社会の時代を迎えた日本では社会のありとあらゆるところで縦割りが進み、その“タコつぼ”に安住するばかりで私たち日本人は外に出ようとはしないということである。
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