創業は「紙」、今は「IT」――ビッグデータのカギを握る男に迫る上阪徹が探る、リクルートのリアル(3/4 ページ)

» 2014年05月09日 08時00分 公開
[上阪徹,Business Media 誠]

半年で辞めるかも

 大学では、複数のPCをつないで協調動作させる研究をしていたが、大学院では、CPUの仕組みのような、基礎の基礎から改めて学びたいと考えた。まだ募集している大学院のひとつが、奈良先端大学院大学だった。ここでは多くの同級生が、研究者を目指していた。

 「それもちょっと違うな、と自分の中では思っていたときに、なぜかリクルートから呼ばれたんです。『ちょっと会いませんか?』と。数人の学生と会議室で待っていたら、バリバリの営業の雰囲気を醸し出した女性が入ってきまして」

 女性は突然、こう言い放ったという。「私は、今座っているこの椅子を売ってこいと言われたら、売ってくることができる」と。

 「衝撃でした。いったい何を言っているんだろうと(笑)。いつまでに論文を書くとか、そんな会話ばかりが中心になる、それまで触れていた世界とあまりに違って。活力溢れるというか、こういう会社に来ると、こんなふうになれるのかな、なんだか成長できそうだな、と。そんな思いを強く持ったんです。最終的には、これが入社の決め手になりました」

 理系の研究者を目指す学生ばかりが周りにいた自分にとっては、まさに異質の世界。だが、それはリクルートにとっても同様だったようである。

 「入社から5〜6年くらいして突然、当時の人事部長に焼肉に呼ばれたんです。もう1人、理系出身の女性がいて。部長はこう言っていました。『2人はオレの人事権で採ったんだ。ヘンなヤツを採りたくて』と。また『絶対辞めると思っていたけど』とまで言われました」

 実は自身も半年くらいで辞めるかも、と思っていた。配属先の先輩からは、3カ月で辞めると思われていたらしい。中野氏が入社した2001年は、リクルートにとって過渡期だった。紙のメディアが次々にネットに乗り変わっていったのだ。各事業領域には、それぞれシステム部門があったが、それをゆるやかにまとめる組織ができた。

 最初の配属は、インフラグループ。サーバなどの基盤を整える部署。半年で辞めるかも、と思ったのには理由があった。

 「何もできない感が半端なかったんです。技術的にはある程度分かっているんですが、何もできない。ただ、おぼろげにあったのは、最初に感じた成長感でした。ここに1年いれば、何が身につくか分からないけれど、何か身につくんじゃないか、と。何かがしたいというより、そこで生きていこうと。この場にいるべきなんじゃないかと。直感です」

 だが、次第に分かってきたことは、リクルートの社員以上に、出入りしていたメーカーやソフトハウスなどパートナー企業の社員たちとウマが合ってしまうことだった。考え方も似ていた。実際、「どうしてそっち側にいるんですか?」とたびたび問われたらしい。

 「ただ、システムの発注側にいましたから、どうやって会社がシステムに関して意思決定をしているのか、どう説得すれば会社が動いていくのか、そうした仕組みや話の持って行き方を理解できたのは、大きかった。これが後に大きく役に立つんです」

入社の決め手になったのは、先輩女性からの一言だった

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