フクシマの被災者たちは忘れられつつある――社会の「忘却」は“残酷”烏賀陽弘道の時事日想(4/7 ページ)

» 2015年03月30日 08時00分 公開
[烏賀陽弘道Business Media 誠]

私の時計は2011年3月11日で止まったまま

神棚の御神体を神社に返す作業をする

 千賀子さんの部屋だったプレハブの離れに行った。かつて教えていた手話サークルのプリントや冊子が積み上げてある。部屋の一角を枯れ草が埋めている、と思ったのは手製のドライフラワーだった。

 庭で草木や花を育てる。花をドライフラワーにしてまた飾る。阿武隈山地を歩いて材料を集め、クリスマスリースをつくる。地域のバザーで売る。知人にプレゼントする。

 部屋や家全体が、多趣味で活発な西原さん夫妻の内面そのもののように思えた。

 「お金(賠償金)もらうからいいよね、と世間は言うのかもしれません」

 床に座った千賀子さんは独りごちた。

 「でもね、避難するってことは、生活していたものすべてを捨てるってことなんです。思い出すべてを捨てるってことなんです」

 私はどう言っていいのか分からなかった。自分の身に同じことが起きたらどんなにつらいか考えた。生きてきた証。記憶。思い出。ある日突然、それを捨てろという。それは生身を裂かれるような経験ではないか。生きてきた人生の何割かを破壊される「部分的殺人」ではないのか。いくら賠償金が支払われようと、人生の記憶こそ「お金では替えることができないもの」ではないのか。

 西原さん夫妻は、押入れやクロゼットに赤い付せんを貼っていった。来月、東電社員のボランティア部隊が家の中を片付けに来る。中のものを捨てるのだ。申し込みから4カ月待った。

 「さあ、4年間この家を見守ってもらったからね」

 そう言って脚立を出すと、神棚のご神体を取り出した。地区の神社に「返納」するのだ。そうやって神様も帰るべきところに返す。そうせず神様を放りっぱなしにすると、バチが当たる。

 一方それは家の中のものをすべて捨て終わり、神様に守ってもらうべきものがなくなったという「宣言」でもあった。建物としての「家」は残る。しかしもう「思い出の家」としての思いは断ち切る。そんな「区切り」だった。 

 2人はご神体に手を合わせ、頭を深々と下げた。

 作業は終わりに近づいていた。

 また帰りたいと思いますか、と私は2人に聞いた。2人は床の上に置かれたご神体をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。

 清士さんがいう。

 「ここに住んでいったっていうイメージはあるんだけど、4年も経つと、もう価値がないなあ……1年くらいはずっと帰りたいと思ってたんだけどね。今はもあばら屋みたいになっちゃったしね……」

 千賀子さんが言葉を継いだ。

 「おかしいと思われるかもしれませんが、あまり感慨がないんです……私の時計は2011年3月11日で止まったままですし。帰りたいと思ったのは……やっぱり最初の1年くらいかなあ……」

ボランティアに分かるよう、タンスや衣装クロゼットの中身を捨てる指示を貼った

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