千賀子さんの部屋だったプレハブの離れに行った。かつて教えていた手話サークルのプリントや冊子が積み上げてある。部屋の一角を枯れ草が埋めている、と思ったのは手製のドライフラワーだった。
庭で草木や花を育てる。花をドライフラワーにしてまた飾る。阿武隈山地を歩いて材料を集め、クリスマスリースをつくる。地域のバザーで売る。知人にプレゼントする。
部屋や家全体が、多趣味で活発な西原さん夫妻の内面そのもののように思えた。
「お金(賠償金)もらうからいいよね、と世間は言うのかもしれません」
床に座った千賀子さんは独りごちた。
「でもね、避難するってことは、生活していたものすべてを捨てるってことなんです。思い出すべてを捨てるってことなんです」
私はどう言っていいのか分からなかった。自分の身に同じことが起きたらどんなにつらいか考えた。生きてきた証。記憶。思い出。ある日突然、それを捨てろという。それは生身を裂かれるような経験ではないか。生きてきた人生の何割かを破壊される「部分的殺人」ではないのか。いくら賠償金が支払われようと、人生の記憶こそ「お金では替えることができないもの」ではないのか。
西原さん夫妻は、押入れやクロゼットに赤い付せんを貼っていった。来月、東電社員のボランティア部隊が家の中を片付けに来る。中のものを捨てるのだ。申し込みから4カ月待った。
「さあ、4年間この家を見守ってもらったからね」
そう言って脚立を出すと、神棚のご神体を取り出した。地区の神社に「返納」するのだ。そうやって神様も帰るべきところに返す。そうせず神様を放りっぱなしにすると、バチが当たる。
一方それは家の中のものをすべて捨て終わり、神様に守ってもらうべきものがなくなったという「宣言」でもあった。建物としての「家」は残る。しかしもう「思い出の家」としての思いは断ち切る。そんな「区切り」だった。
2人はご神体に手を合わせ、頭を深々と下げた。
作業は終わりに近づいていた。
また帰りたいと思いますか、と私は2人に聞いた。2人は床の上に置かれたご神体をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。
清士さんがいう。
「ここに住んでいったっていうイメージはあるんだけど、4年も経つと、もう価値がないなあ……1年くらいはずっと帰りたいと思ってたんだけどね。今はもあばら屋みたいになっちゃったしね……」
千賀子さんが言葉を継いだ。
「おかしいと思われるかもしれませんが、あまり感慨がないんです……私の時計は2011年3月11日で止まったままですし。帰りたいと思ったのは……やっぱり最初の1年くらいかなあ……」
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PRアクセスランキング