福島原発に近い「国道6号線」が開通――そこで何を目にしたのか烏賀陽弘道の時事日想(1/6 ページ)

» 2015年01月22日 08時00分 公開
[烏賀陽弘道,Business Media 誠]

烏賀陽弘道(うがや・ひろみち)氏のプロフィール:

 フリーランスの報道記者・フォトグラファー。1963年京都市生まれ。京都大学経済学部を卒業し1986年に朝日新聞記者になる。週刊誌『アエラ』編集部などを経て2003年からフリーに。その間、同誌のニューヨーク駐在記者などを経験した。在社中、コロンビア大学公共政策大学院に自費留学し、国際安全保障論で修士号を取得。主な著書に『Jポップとは何か』(岩波新書)、『原発難民』(PHP新書)、写真ルポ『福島飯舘村の四季』(双葉社)、『ヒロシマからフクシマヘ 原発をめぐる不思議な旅』(ビジネス社)などがある。


 今回から数回にわけて、福島第一原発事故の被災地や避難者を訪ねた報告を書く。第1回目は、原発災害の被災地を南北に貫く幹線道路である国道6号線を走ってみた報告である。

(出典:JAF)

 この国道はかつての「警戒区域」(=立入禁止区域)である原発から半径20キロの半円形を縦に貫いている。立入禁止区域は段階的に「立ち入ってもいいが住めない区域」「依然立ち入りもできない区域」に改変された。そこへ2014年9月、除染作業の人員や物資の輸送の便宜のために国道6号の道路部分だけが開通した。復興に弾みをつけると期待された。が、今回走ってみて分かった。道路の両側は実質的には住民が戻らないままの「40キロの空白地帯」が続いていた。

 東京から乗った東北新幹線を福島駅で降り、レンタカーを借りた。阿武隈山地の峠道をのぼり、太平洋岸を目指す。全村避難になった飯舘村を抜けると、原発事故直後20キロラインと30キロラインで市域が分断されて食糧の供給が絶え「兵糧攻め」に苦しめられた南相馬市に出る。国道6号線を(南)に曲がった。このまままっすぐ走ると、福島第一原発である。

 これまで、私がフクシマの原発被災地を取材するとき、ルートは2つあった。ひとつは、今回のようなコース。北から南へ福島第一原発方向に向かうかっこうになるので「北回り」と呼んでいた。もうひとつは、バスやJRでいわき市に行き、やはりクルマを借りて被災地に向かうコース。これは南から北へ原発方向へ向かうので「南回り」と呼んでいた。

 なぜこんな2つに分かれたのかというと、太平洋岸にある福島第一原発を中心にした半径20キロの被災地域の半円が「浜通り(福島県の太平洋岸)」地方をふさぎ、南北に分断していたからだ。ここは高濃度の汚染地帯でもあるので、道路は封鎖され、南北に抜けることができなかった。そんな状態が原発事故から3年半ずっと続いていた。

 それが昨年9月15日に、突如「開通」した。別に汚染が劇的に減ったからではない。区間内の平均空間放射線量は毎時3.8マイクロシーベルト。最大値は毎時17.3マイクロシーベルト(原発がある大熊町)あった。相変わらず高線量である。原発内外の除染作業が本格化して、人員や物資の輸送が劇的に増えたので、その便宜のために無理に道路を通したにすぎない。

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