「弁当の買い出し」でPCの面白さに目覚めた――あとで行く・石原淳也さん田口元の「ひとりで作るネットサービス」探訪(1/2 ページ)

「あとで行く」を開発した石原淳也さんは新入社員時に課された「弁当の買い出し」のためにExcelマクロを組んだことがきっかけで、コンピュータの面白さに目覚める。その後、転職や米国勤務を経て、開発者として独立に至る道のりは――。

» 2007年05月23日 19時49分 公開
[田口元,ITmedia]

 「ひとりでつくるネットサービス」第10回目は、行きたい場所を簡単に登録しておくことができる「あとで行く」を開発している石原淳也さん(34)にお話を伺った。

「弁当の買い出し」でコンピュータの面白さを知った

 「プログラミングにハマったのは遅い方だと思いますね」。「田口元の『ひとりで作るネットサービス』探訪」の過去記事を読みこんできたという石原さんは笑う。

 大学では機械情報工学科に在籍。授業でコンピュータを扱い、Cなどのプログラミングも教わったが「世の中にどう役に立つのかいまいちぴんと来なかったし、勉強としてのプログラミングは、大して面白いと思わなかった」そうだ。

 初めて「コンピュータは面白い!」と思ったのは社会人1年生の時。就職した通信会社で、電話交換機のエンジニアとしてキャリアをスタートした。その会社では、新入社員に「部署内のお弁当買い出し係」という仕事が課されていた。

 「『お弁当の買い出し』って簡単に聞こえますが、70〜80人分ですからね。注文を聞いて月ごとに清算して、領収書を切って、となると一仕事です」。この“一仕事”を持ち回りで処理するのが新入社員の役目だったという。

 その煩雑な作業をするうちに「どうしてこんなことを手作業でやっているのだろう」と思い始めた。そこでExcelのマクロを組み、スプレッドシートでチェックを入れていくだけで清算ができる仕組みを作り上げた。領収書の印刷も自動でできる便利なマクロだ。

 このマクロで、今まで数時間かかっていた仕事が一瞬で片付いた。その時に「コンピュータって凄いな!」と初めて思ったという。

 そう思い始めたら「普段の業務にもプログラムに置き換えられる仕事があるのでは」と考えるようになった。当時の仕事は交換機の異常を監視して、トラブルがあったら対処する、というもの。監視作業は夜勤なのでそれなりに大変だが、異常がなければすることは少ない。作業の空き時間を利用して、交換機のシステムからデータを引っ張り出し、異常があればメールする、というプログラムを作り上げた。

 「プログラムを書けば自分の時間が増え、増えた時間でまたプログラムを書くことができます。そうするとまた自分の時間が増えます。本当の仕事ってそういうことなのだな、コンピュータはこう使うんだな、ということをそのとき理解しました」

 当時の上司は、通信業界という保守的な環境にいながらも、プログラムを使って業務を効率化する先進的な試みを積極的に支援してくれた。石原さんが作るプログラムも「Webベースでやりなさい」と指示。Windows 95が発売された翌年、1996年ごろの話である。ブラウザ上のツールを作るため、自然とプログラムはPerlで書くようになった。

「自分でサービスを作りたい」と外資系企業に転職、米国へ

 こうしてプログラミングを続けていくうちに「自分でサービスを作りたい」と思うようになった。通信業界の業務はある程度決まっている。プログラムでそれを効率化することはできるが、新しいサービスを作れるわけではないからだ。

 転職を決意するまでにあまり時間はかからなかった。これまでの経験が活かせる業界で、なおかつ開発に携われるところはないか。ヘッドハンターに連絡を取り、転職先を探してもらった。目に留まったのがジェネシス・ジャパン。コールセンターのシステムを開発する会社である。米国の本社では当時数百人の社員を抱えていたが、日本支社には10人もいなかったという。

 転職したジェネシス・ジャパンではシステムのローカライゼーションを手掛けた。通信業界の経験も活かしつつ、多少はシステムに近いところで仕事ができた。また以前勤めていた国際電話の会社では英語の研修も充実していたので、英語でのコミュニケーションにもそれほど問題はなかった。

 ジェネシスで仕事をするうちに「日本の石原は英語もできるし、システムにも明るい」との評判が立つようになる。そして2000年に転機が訪れた。米国本社でローカライゼーションエンジニアのポストに空きが出たのだ。以前から「海外で働きたい」と思っていた石原さんには渡りに船だった。

 米国行きを即決し、当時付き合っていた彼女にも「付いて来てほしい」と伝えた。結婚して渡米し、4年半を米国で過ごすことになる。シリコンバレーにも近いカリフォルニア州ウォルナットクリークでの勤務だった。

 勢いで日本を飛び出したが、米国での生活は充実していた。その理由の1つがインターネットの存在だった。

 実は、石原さんは2歳から7歳までを父親の仕事の都合でフランスで過ごしている。そのとき子供心に「海外で生活するのは大変」という印象が残った。「30年前の国際電話は高価だったので、両親はなるべく早口で話すようにしていましたし、日本の食材は日本から祖母に送ってもらっていました」

 フランス時代に比べると、米国での生活はインターネットのおかげで実に便利になった。日本人向けの口コミサイトを見れば、近くにどんなレストランがありどういう評判なのか分かる。分からないことがあれば掲示板に書き込めば返事がもらえる。必要なものはガレージセールで安く揃う。

 「インターネットって便利だなぁ」。漠然とそう感じる一方、何となく「インターネットを使って何かをやりたい」と思い始めた。シリコンバレーが近いこともあり、近所の紀伊国屋書店には起業関連の書籍が数多く並んでいた。「大前研一さんの本や西川潔さんの本を読んで『すごいなー』と思っていましたが、現実的に自分が起業するというイメージはありませんでした」

 そう思っていたが、ひょんなことがきっかけでネットエイジの西川潔社長に出会う。西川氏がシリコンバレーに視察に来たときに、知人の紹介で一緒に食事をしたのだ。その席には、その後一緒に仕事をすることになる、現在ウノウの社長をしている山田進太郎氏も来ていた(3月26日の記事参照)。「そのときは緊張してしまって何も話せませんでしたが、漠然と遠い存在だと思っていた起業について、ぐっと身近に感じることができました」

 この出会いがきっかけで「自分でも何かできるのではないか」と思い始めた。また当時の同僚が見せてくれた、GNUやLinuxの成り立ちをドキュメンタリーで描き、オープンソースの素晴らしさを表現した「Revolution OS」というDVDも刺激になった。

オープンソースに興味を持ち「POPFile」の日本語化にハマる

 石原さんの会社で販売するシステムは数百万円単位のもの。「システムは有料で販売するもの」と思っていた石原さんにとって、オープンソースの意義は謎だった。「なぜ、この人たちは無料でシステムを配るのだろう?」。疑問に思った石原さんはオープンソースについて調べ始め、オープンソースのソフトウェアが多数登録されている「SourceForge.net」を見つけた。

 SourceForge.netを見ているうちに出会ったのが、ベイズ理論で学習しながら迷惑メールをフィルタリングするソフトウェア「POPFile」。迷惑メールに辟易していたので早速導入してみたところ、結果は驚くべきものだった。「これを日本語で使いたい!」と痛烈に思った石原さんはソースコードを解析。何とか日本語化パッチを作りあげ、SourceForge.netに投稿した。

 日本語化パッチの反響は大きかった。POPFileの中心的な開発者にも認められ、本家サイトに日本語の紹介ページを作成。スラッシュドットにも取り上げられ、雑誌社からは掲載許可を請うメールが届く。そうした反響を受けるうちに石原さんは「うれしくて、すっかりハマってしまった」という。

 当時、仕事は順調だったが、そろそろ飽きてきていて、日本に戻りたいと思っていた。Web開発に転身したいとも考えていたし、そのためには労働ビザの問題もあったからだ。そこで日本へ転籍願いを出し、2005年に帰国。日本支社でテクニカルサポートの仕事に就いた。

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