「トップレス営業マン」と呼ばれた私が、脱社畜に成功した方法常見陽平のサラリーマン研究所(1/2 ページ)

» 2018年02月09日 06時00分 公開
[常見陽平ITmedia]

 社畜の話をしよう。ちょうど最新作『社畜上等!』(晶文社)を出版した直後だからというのもあるが、編集担当のS君から「なぜ常見さんは社畜人生から抜け出せたのか、その理由を教えてほしい」という熱烈リクエストを頂き、普通ではない何かを感じてしまったからだ。

私は社畜だった

 それは1997年4月1日の出来事だった。入社の前日、大学に残る同級生と学生街で飲み、帰り道に夜桜が散る様子を見て、「青春、オワタ」と感じた私。夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の社畜になっていることに気付いた。まるでフランツ・カフカの『変身』のようだった。そう、この日から15年間に及ぶ社畜ライフが始まったのだ。

 10代の頃は全力少年だった私だが、その後は全力で社畜だった。長時間労働、休日出勤、独身寮での生活、接待、宴会芸、希望外の異動、出向、転勤、過労、鬱(うつ)……。社畜らしいことは一通りやった。いや、社畜でもここまでやりきった人は少ないだろう。

photo 常見氏は昔、本物の社畜だった

 新卒でリクルートに入社。当時の社訓は「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」(創業者の言葉)だったが、営業成績が悪く、宴会芸以外のウリがなく「トップレス営業マン」と呼ばれた私は、「自ら宴会芸を創り出し、宴会芸によって自らを変えた」経験しかなかった。

 芸に対する猛ダメ出しもあったりした。Tバックで吹き矢で打たれる、パンツ一丁で全身にポケベルを付けられ一斉に鳴らすなど、なかなかツラい思いもした。

 飲みの席も楽しい場にはならなかった。参加者の攻撃ならぬ、口撃で泣いたことは一度や二度ではない。泣き出したときの上司の慰めの言葉が「お前、笑え!」というエールだった。笑えるはずがなく、ますます黙って泣いた。

 ただ、よりひどい思いをした人もいた。違う部署の幹部は部下に「死ね!」と暴言を吐くことで有名だった。その後、出世して変わったかと思いきや「死んでください!」と叫ぶようになり、苦笑した。

 楽しみといえば、社内恋愛などをウォッチすることだった。映画『となりのトトロ』ならぬ、隣でドロドロだった。気が付いたら「社内文春砲男」になってしまい、当時、東スポで連載されていた『六本木黒服情報』(六本木の黒服が有名人のうわさ話を紹介するというコーナー)風に「黒服」というあだ名が付いてしまった。

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