1ポンドの福音とならなかった超音速旅客機「コンコルド」日曜日の歴史探検

コンコルド――もしかすると若い方の中にはこの飛行機を知らない方もいるかもしれません。イェーガーが破った「音の壁」を民間の旅客機ではじめて破ったコンコルドは、1機1ポンドというあり得ない価格で売られた機体でもあります。

» 2009年02月22日 02時22分 公開
[前島梓,ITmedia]

 前回、1940年代の軍用機パイロットに恐れられていた悪魔「音の壁」から生還した男、チャック・イェーガーを紹介した「『音の壁』の向こうから生還したチャック・イェーガー」をお届けしました。軍事の世界で達成されたこの新たな世界は、どう民間へと転用されていったのでしょう。今回は、英国と仏国が共同開発した超音速旅客機「コンコルド」(Concorde)がその翼を折られるまでの数奇な人生を追体験してみましょう。

各国がしのぎを削った超音速旅客機開発

コンコルド フライ・バイ・ワイヤを民間の旅客機ではじめて採用したことでも知られるコンコルド。通常の旅客機が航行する高度の2倍近い高さをマッハ2.0で飛行しました(画像:Wikipedia)

 イェーガーの偉業によって音速の壁が脅威ではなくなった後、民間でも超音速旅客機の開発が各国で進められていくことになります。超音速旅客機を開発して運行できるようにすれば、遠距離の航路ほどその恩恵を受けられることになります。プロペラ機が12時間掛かる距離がジェットエンジンの開発により7時間ほどになっていた時期でしたが、超音速旅客機であればさらにその半分の3時間程度のフライトで済むからです。当時すでに高まりはじめていた航空需要をさらに後押しするものとして超音速旅客機はその登場が期待されていました。

 米国のほか、英国、仏国、そして当時は冷戦状態でしたから未確認情報ながら鉄のカーテンの向こうでソ連も超音速旅客機の開発に精を出していたようですが、実際のところ、超音速旅客機の開発には技術的な問題も山積みでした。例えば、機体の素材1つ取り上げても、当時の旅客機で一般的に用いられていたアルミニウム合金では、超音速航行時の摩擦熱に耐えられません。技術的な部分だけを取り上げれば、チタニウム合金を使えばよいのですが、その製造コストとそこから得られるであろう収益性のバランスから、一筋縄でいくものではなかったのです。

 米国ではボーイングやロッキードなどを中心に超音速旅客機の開発が進められていましたが、ただ、マッハ3近くの速度で飛行する超音速旅客機を想定した開発方針だったこともあり、開発は思うように進みませんでした。

 一方、1962年に英仏両国はそれまで独自に行っていた開発を共同で行う方針に転換します。この7年後の1969年、音速の壁を突破する世界初の超音速旅客機が誕生します。それがコンコルドです。コンコルドは乗客定員が100人と少なく、燃費も当初考えられていたほどよくはなかったのですが、短い時間で長い距離を移動できるため、航空料金を高く設定できる点と、米国で超音速旅客機の開発が進んでいないという現実を考えれば、コンコルドがその市場を独占できる可能性が高かったのです。

英仏両国の大プロジェクトだったコンコルド。当時は、コンコルドが超音速旅客機の市場を独占し、ドル箱になる可能性が高かったのです(イラスト:架空の姉

 音速を超えて飛行するコンコルドには、通常の旅客機と比べると特別な対応を求められる部分が多くありました。例えば、通常よりも長い滑走距離を必要とする点、操縦士と副操縦士以外に「航空機関士」を必要とする機体である点(当時、ナビゲーションシステムが発達したことで航空機関士が不要となり、2名で運行するのが普通になりつつありました)、さらに音速の壁を越えることで発生するソニックブームも問題でした。

 パリとワシントン、ロンドンとワシントンといった路線の運行許可は下りたものの、ソニックブームを理由に、ニューヨーク路線が就航するまでには裁判による決着を要しました。さらにオイルショックもボディブローのように効いたはずです。1973年の第4次中東戦争によって原油価格が高騰したことで航空各社は燃料価格を上げざるを得ず、ただでさえファーストクラス並みだったコンコルドの運賃はさらに高くなりました。

 限定的な路線のみの就航しか許可されず、特別な対応が必要で、しかも高い。すでに旅客機がエグゼクティブ層向けのサービスから一般化しつつあった中で、コンコルドの魅力は少しずつ輝きを失いはじめていました。

1ポンドでたたき売られたコンコルド

 コンコルドは当初、250機売れれば採算ラインに乗ると見積もられていましたが、得てしてこうした試算はふたを開けてみると大きく異なるものです。そして、コンコルドも例外ではありませんでした(あくまで結果論ですが)。コンコルドの登場当初こそ仮発注は順調でした。日本航空もコンコルドの導入を計画し、1965年に仮発注まで行っています(その後、ボーイング747に変更する形で購入を取り消しましたが)。

 コンコルドにとって不幸だったのは、そのプロジェクト自体がはじめたら決して止まらない性質のものだったことでしょう。英仏両国はこのプロジェクトを開始する際、「破棄不能条項」、つまり、「お互い、何があってもこのプロジェクトから降りることは許さない」という条項を設けたのです。仮にこの条項を破ってしまうと、事実上欧州市場からは追い出されることになるため、英仏両国にとって退路ははじめから断たれていたといえます。「協調」「調和」といった意味を持つコンコルドですが、それは裏を返せば利益を出す必要がある民間企業には当初から荷が重いプロジェクトだったことを暗示しているようです。

 両国にとっての基幹産業に化ける可能性を秘めたコンコルドでしたが、どの航空会社もコンコルドを買ってくれないことに慌てた英仏両国は、買い手のつかないコンコルドを、それぞれ自国の航空会社であるブリティッシュ・エアウェイズ(英国航空)とエールフランスに買い取らせます。もちろん、両航空会社からすれば、そんなコストを捻出(ねんしゅつ)できるはずがありませんし、その必要性も感じていなかったはずでした。そこで名目上、1ポンドという価格で両航空会社に引き渡されることになります。実質的にタダで引き渡されたわけです。結果、英国航空が7機、エールフランスが9機を所有することになります。最終的に製造されたのはわずか16機でした。

 整備などのコストや、限定路線の就航といった悪条件を勘案しても、機体のユニット価格が1ポンドであれば、十分収益が見込めます。両航空会社にとってはそれなりにおいしい話となりました。

不幸はいつも突然に

 その後、20世紀最後の年となる2000年まで、コンコルドは事故も起こさず、就航を続けます。しかしこの年、裕福層の乗り物と化していたコンコルドに不幸が舞い降ります。

 2000年7月25日、エールフランスが所有するコンコルドがパリのシャルル・ド・ゴール空港を離陸時に燃料タンクを破損、直後に漏れ出た燃料に引火、そのまま炎上・墜落し、100人以上が死亡するという大惨事が起こります。この事故を撮影したYouTubeの映像を紹介しておきましょう。

 事故後は航空会社間で責任のなすり付け合いがはじまりました。エールフランスは事故の原因が滑走路上に落ちていた金属片であると主張、その金属片がコンチネンタル航空が所有する機体のものであったのだから、コンチネンタル航空を刑事告訴することになります。この説には今でもさまざまに議論されていますが、真相は闇の中となっています。

 実はこの前日の7月24日、英国航空はある発表を行っています。自社が保有するコンコルド7機、つまりすべてのコンコルドの尾翼に亀裂が発見されたというものでした。通常の思考であればエールフランスが保有するコンコルドにも同様の亀裂が発生していたと考えるのが自然です。事故の発生と尾翼の亀裂が存在し得たことに直接の関連性はありませんが、事故が起こる予兆は存在していたわけです。

MISORA 東北大学流体科学研究所を中心に開発されている「MISORA」。コンコルドの後継へと育っていくのでしょうか

 その後、エールフランスは即日、英国航空も8月15日に運航停止を決定。2001年11月7日に運航が再開されましたが、もはやどんなマーケティングも功を奏さないほど、コンコルドに対する信頼は失われてしまいました。そして、2003年4月、英国航空とエールフランスは同年10月をもってコンコルドの商用運航を停止することを発表。エールフランスは5月、英国航空も2003年10月に最後の営業飛行を終え、超音速旅客機は姿を消してしまいました。これにより、現在、民間人が航空路線で超音速飛行を体験することは、ほとんど不可能な状況にあります。ただし、ソニックブームの発生を減少させる超音速複葉翼機「MISORA」(御空)など、新たな世代の超音速旅客機の開発も少しずつ進みつつあります。

 コンコルドの不遇な生涯は、大規模プロジェクトの難しさを示すものでもあります。プロジェクトマネージャと呼ばれる方たちは、この話をベースに、自分ならどう進めたか、プロジェクトはどこまで視野を広く持つべきか、どういった危機管理を行うべきなのか、そうしたケーススタディとして考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

毎週日曜日は「日曜日の歴史探検」でお楽しみください


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