大塚から「顧客台帳」の取り扱いを注意されたその日、神崎は大学の同窓生である石原靖と、行きつけの四谷の「ギガバイト」というアイリッシュパブで待ち合わせた。
石原とは、大学卒業後も1?2カ月に1回くらいの割合で一緒に飲み、お互いの近況報告やほかの同窓生の現状などの情報交換をし、時には同窓会の幹事にもなったりしていた。
石原は四菱商事という総合商社に勤めており、お互い別の会社で働いているという気楽さから、神崎は石原と飲むときは開放的な気分でいろんなことを話すことができた。
神崎 「石原、ここ、ここ!」
石原 「遅くなったな、わりぃ、わりぃ」
神崎 「いや、オレもいま来たところだ。じゃ、お互い駆けつけ3杯はビールといこうか」
この日も、別会社にいる昔の仲間という気楽さとビールの酔いが手伝って、神崎の話は最初から飛ばし気味であった。
神崎 「それでな、顧客台帳の管理がなっとらん、とこういうわけだ。そりゃ確かに、顧客台帳の件についていえば、オレが悪い。そんなもん、キャビネットにしまえばそれでいいんだからな。明日っからやってやろうじゃないの、ってなもんよ。そうじゃなくて、オレが言いたいのは、顧客台帳のしまい忘れもコンプライアンス違反だ、と騒ぎ立てるのがおかしいってことなんだ。だろう? こら石原、聞いてんのか? おい」
石原 「あぁ。ウチの会社もコンプライアンスには厳しいぜ。『顧客の新装開店のお手伝いは、偽装請負の可能性を含んでいるから、事前申請で承認を受けること』とか、『接待をする場合もされる場合も、行き過ぎはコンプライアンス違反につながるから、事前申請で承認を受けること』などなど……。ビジネスチャンスを目の前にしてるのに、書類仕事をしないと先に進めない、って感じだよ」
神崎 「そう、そう、そこよ。ウチも似たような感じだな。まるで、獲物を見つけた猟師が銃を構えようとして、教本どおりに構えなければ!と考えて自分の構えをあれこれ直しているうちに獲物が逃げちゃう、みたいな」
石原 「まぁ、何も無理やり例える必要もないけど、取りあえずそんな感じだな」
神崎 「オレたち企業人は、もうけるために仕事してるんだよな。コンプライアンスを守ったからって、もうけが上がるわけじゃないだろ。なんかこう、本末転倒って気がするよな?!」
石原 「そう、そう」
神崎 「もうけるっていえば、例の顧客台帳……。実はな、いまオレ顧客データベースの開発に取り組んでるんだけど……。ちょっとしたアイデアを持ってるんだ。これが実現できたらけっこう強力な武器になるって代物だ。それはな……」
何かを知っている人間が、それについて何も知らない人間に説明してやるとき、そこには一種の優越感に基づく快感が生まれる。神崎は、コンピュータについては全くの素人である石川に対して、ソルティシュガーの内容や、技術的にどこが難しいポイントか、それが実現すればどのようなメリットが生まれるか、といった事柄を語って聞かせた。
そんな鼻の穴を膨らませながら得意げに語る神崎の後ろに、4人グループの集団がいた。そのうちの1人、ちょうど神崎と背中合わせの位置にいる1人の男性が、少し不自然な姿勢で座っていた。ピンと伸ばした背筋を心持ち神崎の方に傾かせて、あたかも、神崎の話を背中で聞き取ろうとしているかのようだった。
その4人グループは、スマートコンサルティング社の社員たちであった。背筋を神崎の方に傾けているのは江川洋介だ。
スマートコンサルティングはグランドブレーカーのコンペティターであり、これまでも何度か、相見積もりの競争相手としてしのぎを削ってきた間柄である。江川洋介は神崎と年齢も同じで職制も似たようなものだった。江川自身は、そこまで詳しくは知らなかったが、相見積もりの場面で何度か神崎を見かけており、その顔と名前は覚えていた。
江川たちのグループが飲み始めてしばらくして、その神崎が店に入ってきて、江川の真後ろに座ったのだった。江川は最初、(こんな偶然もあるんだな)ぐらいにしか思わず、神崎の存在は忘れて自分たちのグループの話に加わっていた。ところが、神崎の連れがやってきてものすごい勢いでビールを飲み始めてから、神崎の話し声のボリュームが上がり、嫌でも江川の耳に飛び込んでくるようになってきた。
江川 「(顧客台帳の放置ねぇ……。そりゃまずいでしょう)」
江川 「(ふ〜ん、グランドブレーカーさんの交際費の申請手続きは、けっこう厳しいんだなぁ)」
江川 「(コンプライアンスねぇ、どこも苦労してるんだなぁ)」
江川 「(大塚さん……? ああ、神崎君の上司の人だな。へぇ?、そんなことを言うんだ)」
江川 「(ふ〜ん、なるほど……)」
こうなると面白いもので、まるで、競争相手の会社の社員から、相手の会社の内部事情をヒアリングしているようなものだった。
そのうち、神崎の声が一段と大きくなったと思ったら、ソルティシュガーがどうのこうの、という話を語り始めたのだった。
江川 「(ソルティシュガー? また妙なことを言い始めたぞ……)」
と、最初のうちはあまり気にかけずに聞いていたが、神崎の話が進むにつれ、江川の意識はソルティシュガーについての情報を理解することに集中してきた。
江川 「(なるほど、ソルティシュガーってのは、データベースの作り込みにおける画期的なアイデアなんだな。フムフム、なるほどなるほど……)」
江川の背筋は無意識にピンと伸びて、体が神崎の方に傾いていったのだった。
神崎は、自分の背後で江川が聞き耳を立てていることなど全く気付かずに、石原の素人っぽい反応にますます鼻の穴を膨らませて、得意げに語ったのだった。
神崎 「石原、おまえさぁ、結婚なんか考えることあるか?」
石原 「え? 結婚? ……まだまだだね。相手もいねぇし」
神崎 「そうだよな、こんなに仕事、仕事の毎日じゃ、合コンもできやしねぇもんなぁ」
神崎と石原が飲み始めてから2時間近くがたっていた。ソルティシュガーの盛り上がりも終わり、2人の話はたあいないよもやま話になっていた。
ふと、神崎は視線を感じて辺りを見回した。
右斜め前方にレジがあり、なんとなく、その方向から視線を感じたような気がして、そこに視線を向けたそのとき、1人の男性と視線がかち合った。それは一瞬のことで、次の瞬間には、その男性は視線を切り、仲間たちと一緒に店を出て行った。
その後姿を見送ったとき、神崎の記憶がよみがえった。
神崎 「(あぁ、あいつは確か、スマートコンサルティングの……。そうそう、江川洋介とかいうやつだ。どこかの相見積もりで一緒になったことがあったっけ)」
自分の会社の有力なコンペティターの連中が、同じ店で飲んでいたのである。そして、その環境で、神崎自身は石原を相手にたあいないよもやま話もしたが、同時に会社のこと、仕事のこと、さらにはソルティシュガーのことなども大声で話していたのである。通常ならば、冷や汗の1つや2つも流して、何かまずいことはなかっただろうか、と気に病むところである。
ところが、そこは年齢相応の思慮分別に欠けていて、人間全体として大ざっぱ過ぎるところがある神崎のこと……。(ふ?ん、こんな偶然もあるんだな)ぐらいにしか考えていなかった。そして、江川の姿が店の外に出たのと同時に、神崎の頭の中からも江川のことは消え去ったのだった。
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