コラム
» 2006年10月16日 08時33分 UPDATE

小寺信良:インターネットは社会じゃない (1/2)

社会というものには一定の秩序があるものだ。なければそれはただの「世間」である。昨今のインターネットをめぐる問題は、それが「社会」だと勘違いしたところに根本的な原因があるのではないだろうか。

[小寺信良,ITmedia]

 普段あまり車に乗らない筆者だが、たまに乗るといつも感じるのは、車には独特の社会性があるなぁということである。例えば右折時に相手が譲ってくれるとき、またこっちは譲るときは、特に声など掛け合わなくても、阿吽(あうん)の呼吸でわかる。また、この交差点では対抗右折車を先に行かせた方が後々こっちも曲がりやすいとか、ここはよくトラックが出てくるから減速しとくとか、その地域ごとのローカルルールを飲み込むと、スムーズに走れる。

 俗に「車社会」という言葉があるが、これは主要交通手段を車に依存している社会という意味で用いられる。しかしもっと狭義の意味で、「車上社会」というか「車道社会」というか、運転しているもの同士でのみ共有できる認識社会のようなものが存在するように思う。

 ここで筆者が社会の定義について述べることはおこがましいのであるが、まあ一般的には秩序がある状態を広く指すということでいいのではないか。路上の世界では道路交通法がベースには存在するわけだが、それを強く意識しなくても、安全のため、みんながスムーズに走れれば巡り巡って自分のため、臨機応変、因果応報、“情けは人のためならず”的協力関係によって、秩序が保たれるわけである。

 学生は就職することによって「社会人」となるわけだが、それは秩序を求められる世界の一員となった、ということである。ではそれまではなんだったか、あるいは社会人ではない人たちとは何か、はたまた社会人という立場を離れた状態を何というか。それを世間では、「世間」というのである。

 「世間話」という言葉がある。これはまず、社会的な責任は問われない話である。そこら辺の立ち話程度では、地域によって、あるいはリーダーの質によって、妙に話が左翼的だったり右翼的だったりすることもあるわけだが、そこで政治理念を厳しく問われたりはしない。あくまでも「そういう話」で終わりである。

 だがその世間話が、強大な伝播力を持ったらどうなるか。それが現在のインターネットの姿であるかもしれない。

レイヤーに分かれる社会と世間

 これまで強大な伝播力を持つものは、マスコミであった。マスコミはそれぞれの正義感だったり秩序だったりという社会性を持って、ある意味「社会」を「世間」に向かって広く知らしめていた。マスコミが常に正しいという論理が崩壊しつつあることは、別の機会に譲る。

 まあとにかく、一部の特権であった強力な伝播力は、法や自主規制や存在意義によって縛られ、正しい(と思われる)社会の姿を世間に知らしめるわけである。それによって世間は、「社会」の存在を意識することになる。つまり世間というレイヤーの上に社会というレイヤーがあって、そこでナニゴトか行なわれていることを知るわけである。

 通り魔殺人など、一般人を無差別に巻き込んだ事件が発生すると世間が戦々恐々とするのは、これまでマスコミによって知らされてきた別レイヤーの「社会」の出来事が、突然自分たちの住み処である「世間」のレイヤーに食い込んでくるからである。

 このレイヤーの分離感覚をもたらしたのはマスコミの弊害であると筆者は考えるのだが、メディアが強力あればあるほど、そこで知らされる事実は現実感や親近感から遠ざかっていく。

 そしてインターネットの発達というか、定着の時代になって、ネット上に居れば誰でも、強力な伝播力が持てる可能性を手に入れた。ネットによる情報通信の拡大は、言うなれば世間そのものが伝播力を持つという意味でもある。

 旧来のマーケティングでは、「口コミ信仰」みたいなものがあった。そこに火をつけるのは難しいが、いったん火がつけば長くしつこく燃え続け、根強い信仰につながるとされていた。それはある意味、世間の口コミというのは伝播速度が遅いということ、情報をもたらすものが近親者であることから、むしろ無条件とも言える無邪気さでそれが信じられてゆく強さを裏付けるものだ。

 現在でも特定の年齢層や購買層を絞り込めば、口コミの効果はそう変わらないかもしれない。だがネット上では口コミの口は決して小さくもなく、遅くもない。ネット上に限らず社会に対する影という意味での世間の口コミは、それが真実であるかどうかを問題にしない。世間の住人は真実よりも、信じたいものを信じるだけなのである。

 かつてパソコン通信時代には「ネット社会」という言葉があった。社会とは秩序を表わすわけだが、特定の通信網の会員になって行なうコミュニティには、秩序があった。秩序が守れない者は、その社会から吐き出されるわけである。

 しかしインターネットの場合は、通信網にIDとパスワードでログインするという類のものではない。一般家庭ではプロバイダ経由で接続するため、まあなにかしらの会員ではあるのかもしれないが、その先どこへ行こうが何をしようが、基本的には匿名のままで活動することが可能である。

 個人の特定がないということは、同時に他人の目の存在も意識しないということでもある。これまで日本の社会は、自分と他人との間における遠慮と許容において成立してきた部分が大きい。そこに個人というアイデンティティ、また対面の関係がなくなれば、これらによって守られていた秩序は維持できない。

 インターネットが一般に開放されたとき、そこは「ネット社会」ではなく、「ネット世間」と呼ばれるべきだったのである。

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