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ニューサイエンスが意味するものITソリューションフロンティア:視点

» 2004年11月16日 00時00分 公開
[此本臣吾,野村総合研究所]

 1980年代、ニューサイエンスという言葉が流行した。この言葉には、「難解な事柄はできるだけ細かい部分に分解する」という、デカルト的な要素還元主義に対するアンチテーゼが含まれていた。

 古代ギリシア以来、近代に至るまで、自然科学は、「自然界の万物を細かく分割していけば、これ以上分割できない粒子の組み合わせに帰結できる」という考えを基盤にしてきた。部品から成る機械が、個々の部品の機能がわかれば、全体の機能も理解できるのと同様と考えたのである。このような要素還元的思考法は、機械論的自然観とも呼ばれる。

 しかし、ミクロの世界では、「相互依存」という現象が現れる。たとえば、電子の状態を観測するため、電子に電磁波を当てようとすると、被観測物である電子が乱されてしまう。観測が状態に影響を及ぼしてしまうため、結局のところ、観測目的である電子の状態は、永遠に突き止められない。つまり、ミクロの世界では、観測者と被観測者は、「相互依存」の関係にあるため、決定論的に何かを突き止めようとしても無理である。

 このことは、物体の運動は、初期条件さえ決めれば一義的に決まるという古典物理に対するアンチテーゼとなった。ミクロの世界では、単純な決定論は成り立たないのである。

 すべては決定論的に解明できるわけではない。曖昧、あるいは、確率的な観点からしか解明できないということは、「東洋」対「西洋」という議論へも発展した。

 東洋の世界観は、より直観的に全体を理解しようとする。たとえば、こんな比喩がある。川の流れを観察する場合、西洋人は川岸から流れを観察し、決して川の中に入ろうとしない。しかし、東洋人は、まず川の流れの中に身を置き、身体で感じながら流れを理解しようとする―――つまり、西洋と比較して東洋は、より直観的、全体的に物事をとらえようとするわけである。

 他方、ニューサイエンスのひとつとして、「有機システム論」という考え方も台頭した。その代表例が、地球全体を一個の生命体とみなす「ガイア仮説」である。

 地球に、機械論的な熱力学の法則を当てはめれば、五十億年という間に、地表が高温の塩水に覆われ、大気は二酸化炭素で占められ、その結果、生命は絶滅していたとしてもおかしくないそうである。

 大気の酸素濃度は21%だが、これがたった1 %上昇するだけで、落雷による山火事の危険性が70%増加する。25%になれば、ほぼ地上は全て焼け野原になるという。しかし、酸素の濃度は何十億年という間、21%という絶妙なバランスで維持されてきた。また、空気中の炭酸ガスやアンモニアも、きわめて絶妙な濃度に保たれ、生命の存在にとって不可欠な温度を維持し続けてきた。

 このような大気の組成が、無機的な反応プロセスの結果、単なる偶然で維持されてきたと、機械論的に考えてよいものだろうか。地球上の生態系が、1つの有機システムを形成していて、地球全体があたかも意思をもつかのように、環境を一定に保っていると考えたほうが適切ではないか―――「ガイア仮説」では、地球がこのような巨大なフィードバック・ループをもった有機システムとしての生命体であると考えるのである。

 「ガイア仮説」は、地球という「全体」を「部分」の単なる寄せ集めとはとらえない。「部分」が「全体」からフィードバックを受けつつ、自律的に「全体」というネットワークの中で役割を果たすことによって、調和のとれたシステムを維持していると考える。

 このような有機システム論は、さらに「ホロン」という概念へと発展した。

 「ホロン」は、ギリシア語で「全体」を示す“holos”と粒子や部分を示す“on”を合成した言葉である。たとえば、身体(全体)は、多くの器官(部分)から構成されているが、さらに、器官(全体)もさまざまな細胞(部分)から構成されている。その1つ1つの要素をホロンと呼ぶと、1つのホロンは上位レベルのホロンに従属する一方で、自分を構成する下位レベルのホロンを支配する。

 たとえば、人間という有機システムにおいては、心臓はひとつの下位にあるホロンであり、心臓を形成する筋肉はさらに下位に位置するホロンである。それぞれ、自律的な動きをするが、人間という有機システムの秩序の下、バランスを維持しているわけである。

 こうした考え方の影響を受けたためか、当時、「ホロニック経営」という言葉が流行した。すなわち、個人や組織は、個性と独自性を発揮する一方で、企業という有機システムの中で協調していることが好ましいと論じられた。

 こうした議論は、現代においても有益であるように思える。市場を細かいセグメントごとに分析を試みても、総体的な市場を正しく理解できるとは限らない。また、企業経営を細かく機能に分解して丹念に問題を探ったとしても、本質的な問題を理解できるわけではない。したがって、要素に分割して分析を加える能力よりも、直観的に全体を理解する能力を磨く方がより重要ではないかということになる。それは、専門分野を細かく分化して研究を重ねても、総体的な考察ができる機能を担保しなければ無意味ということである。

 また、有機システムは、部分の総和以上の存在であるべきで、そのためには共生(ホロン的に相互に関係し合うこと)が重要であるという議論になる。「個」を尊重したところで、「全体」から切り離された「個」であれば、何ら意味はない。システムは有機的であることをまず「個」に教え込むことが必要である。

 20年前にニューサイエンスで議論されていたことは、今なお新鮮さを失ってはいない。

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