ビジネスシーンにはさまざまな法律問題がふりかかる。IT化した現代社会では、これまでの常識ではっきり答えの出ない法律問題が出てくることも多い。そこで、特にビジネスパーソンが直面したり見聞したりすることの多い法律問題について、情報ネットワーク法学会所属の研究者や弁護士らが分かりやすく解説する。
第1回は、2006年に世間をにぎわせた民主党の偽メール事件にちなんで、法廷で証拠として扱われる「電子メール」というものがどういうものかを考察する。
日本の民事裁判では、証拠となるものに制限は設けられていない。どのようなものでも証拠になりうる。だが、証拠の真偽が争われるケースでは、その真偽を確かめる手段が必要になってくる。
2006年を振り返るエピソードの1つに、民主党偽メール事件というのがあった。すでに記憶の片隅に追いやられてしまった感もあるが、改めて思い起こしてみると、「ライブドアの元社長が部下にあてたメールの中で、自民党幹事長の次男に3千万円の選挙コンサルタント料を振り込むよう指示していたという“事実”が、ある民主党議員によって暴露された」というものだった。
そしてその証拠として、メールをプリントアウトした紙のコピーが登場した。紆余曲折の末、結局偽のメールであることを民主党議員が認め、議員辞職にまで至って幕引きとなった。
この事件を見ていて思ったのは、メールという存在が意外なほど人々に信じられやすいものだったということ。情報を入手したといっていた民主党議員も、当時の党首も、偽物かもしれないとは思わなかったらしい。
しかし、メールのようなデジタルデータは、紙の文書よりも改ざんしやすく、改ざんの痕跡も残りにくいというのが常識である。ましてや、プリントアウトのコピーでは、どこをどのように改ざんしたのか、していないのか、全く分からなくなってしまう。このようなものでも証拠になるのだろうか?
結論から言えば、最もフォーマルな場である裁判でもメールは証拠になる。
まず、日本の民事裁判では、証拠となるものに制限はない。風呂屋の下足札だろうがメールだろうが、どのようなものでも証拠となる。もちろん裁判官が見て、証拠から必要な情報を受け取ってもらわないと裁判では役に立たないので、デジタルデータはプリントアウトしたり、法廷でスクリーンに投影して内容を見せたりする。デジタルデータをCD-Rなどのメディアに保存して提出しても、裁判所のPCで読めるフォーマットなら大丈夫だ。普通はプリントアウトも併せて提出するが。民主党の偽メールのようなものでも、ひょっとしたら証拠になるかもしれない。
携帯メールでも裁判の証拠として通用した例がある。
ある会社の従業員が、体調を崩して休みがちとなり、上司に携帯メールで色々と相談をした。その中には、「保険関係が解決する来月下旬までは会社に置いてください。解決したら退職しますので,もう少し我慢してください。よろしくお願いいたします」という内容のメールもあった。
その後、会社はその従業員を解雇したので、1カ月分の解雇予告手当を支払う義務があるかどうかの裁判になった。
この裁判で会社は、従業員が自分から退職を申し出たから解雇ではないと主張し、その証拠としてこのメールを持ち出したのだ。裁判所は、このメールが証拠になることを認めたが、この程度の記述では自分から辞める意思を表示したとは言えないとして、解雇予告手当を支払うように会社に命じた。
この事件から分かるように、携帯メールであっても裁判の証拠となる。ただし、証拠になるからといって信用されるかどうかは別の話だ。
それにしても、法廷で通用する証拠といったら、普通はもっと厳密な形式が整っている必要があるのではないか? 日頃ビジネスの現場では、取引の証拠として残す文書には代表印や実印を押し、ページごとに割り印を押し、同じ文書を2通作ってそれぞれに保管するなど、とても神経を使う。それなのに、ただのメールの、それもコピーでも証拠になるというのは変だと思われるかもしれない。
実は、携帯メールの事件では両方の当事者が証拠(すなわち携帯メール)が本物であることを争わなかった。争われなければ、コピーでも署名捺印のないプリントアウトでも証拠として使える。問題は、提出文書やデジタルデータが偽造されたものだと争われたときである。
紙の文書なら印鑑、それも実印が決め手となる。実印で、印鑑証明書もあれば、よほどのことがない限り本人が押したものと推定されるし、本人が押したなら本物だろうと推定される。デジタルデータの場合、印鑑に相当するのは電子署名。そして実印に相当するのは、認証された電子署名だ。
では電子署名のないデジタルデータはどうなるか? 普通のメールが偽メールかどうかを争われたら、もう証拠として使えないのだろうか?
印のない文書や、印があっても三文判の押された文書は、争われれば本物であることを証明しなければならない。筆跡は有力な手がかりになるし、改ざんの痕跡があるかどうか、文体の癖、使用された紙の特徴など、様々な情報から真偽を決するしかない。
デジタルデータの場合も、たとえ電子署名がなくともデータに含まれるさまざまな情報から、作成者が誰か、または改ざんの有無などを明らかにすることができる。ファイルに付加されたプロパティや電子メールの場合のヘッダ情報でもかなりのことは分かるが、PCのディスク自体を解析すれば、ファイルの作成日時や作成者、編集履歴、外部媒体の使用歴など、さまざまな情報を読み取ることができるのだ。こうした解析は「デジタル・フォレンジック」と呼ばれる。
ただし、データ自体がコピーされたものだったりすると、真偽を明らかにする情報が失われていることもある。プリントアウトされた文書では、そもそも解析する手がかりは全くない。
結局、デジタルデータも紙媒体の文書も、決定的に違うというわけではない。コピーや署名のないファイルでも、本物であることに争いがなければ、そのまま証拠になる。しかし争われたときは、実印や電子署名が決め手になる。それらがないと本物だという当事者は、その立証に相当苦労するだろうし、結局使えないということもあり得るのだ。
情報ネットワーク法学会は弁護士や裁判官など実際の現場で働く実務者のほか、研究者や技術者などが参加する任意団体。情報ネットワークをめぐる法的問題の調査・研究に加え、情報ネットワークの法的な問題に関する提言や研究者の育成・支援などを行っている。
南山大学法学部・法科大学院で民事訴訟法と情報法を担当し、情報ネットワーク法学会では副理事長を務める。ブログ「Matimulog」でも活動中。
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