年商1億2000万円、“タオルソムリエ”はどうやって「売れる!」を勝ち取った?「売らない」から売れる!(2/3 ページ)

» 2013年12月03日 11時00分 公開
[寺田元,Business Media 誠]

「進化論」の意味を身をもって知る

 強くもなければ、賢いわけでもない。変化したからこそ生き残ることができたわけですが、変化するのは簡単なことではありませんでした。いかに生き永らえるようになったか、ということからお話ししたいと思います。

 そもそも私の場合、自らの意志で変化したのではなく自分の身に降りかかった状況を何とか打開するため、自分を、事業を変えざるを得ませんでした。私の父は1971年から京都の一等地でギフト業を営んでいました。当時は大型量販店も近くになく、近隣の贈答品の取り扱いを独占しているような状況で、商売は繁盛していました。しかし1986年、父親の会社は借りていた店舗に入っていたために、オーナーの都合で立ち退きに近いかたちで滋賀に移転することになりました。

 その後1993年に経営が苦しくなり、同じ滋賀県内で移転をします。しかも同じタイミングで、母親が激しいめまいなどの症状が出るメニエル病になってしまいました。大学卒業後、サラリーマンになって3年間ほど経ったころのことです。

 一緒に住んでいながらも朝から晩まで仕事に駆けずり回っていて、父親の会社の状況も一切知らず、母親が病気になっていたこともまったく気が付きませんでした。しかしそれを知って、「一度きちんと家族のことを考えなければ」と思い、勤めていた会社を退職し、父親のあとを継ぐことを前提に、父親が経営していた京都工芸に入社することになりました。

 いざ入ってみると、京都で繁盛していた時代とは違い、父はあとの余生はほそぼそと食べていければ十分だというような考え方で商売をしていました。8年間、父の下で働いたのち家業を引き継ぎましたが、私は父に言われた仕事しかしないというスタンスでした。仕事の内容は、私が仕入屋さんからギフトの商品を仕入れて、お客さんから商品の注文があれば、それを配達するというものでした。

 街の中にあるギフト屋のポジションとしてちょっと異色だったのは、郵便局の窓口でお客さんが受け取る粗品を販売していたことです。当社にとっての主要なお客さんは郵便局さんだったのです。京都時代ほど儲かってはいませんでしたが、ありがたかったことに飛び込み営業することもなく、お客さんは父の代から知っている人ばかりでした。その息子である自分は、父が敷いてくれたレールの上を何も考えないで進んでいるだけでよかったのです。経営はもちろん、ビジネスについてすらまったく分かっていないド素人の経営者だったと思います。

 当時、私が商売におけるサービスとして意識していたことは、大きく2つあります。1つ目は、付加価値を付けること。どういうことかというと、納期に遅れずに、早く確実に届けることと、商品をきれいに包装して、のし印刷などを無料で仕上げることです。これらが自分がお客さんに提供できる付加価値だと思っていました。

 もう1つは、定価から利益ギリギリまでお値引きをさせていただき、他店さんより1円でも安く商品をご提供することでした。これこそが得意先に1番喜んでもらえることだと思い込んでいました。

 この2つに疑問を感じない方もいるかもしれませんが、今振り返ると、「商売のことを何も分かっていない!」と、当時の自分に説教をしたくなります。

世界は、自分が動くと変わる

 そんな私に商売の転機が訪れます。2001年4月26日、小泉政権が発足します。小泉さんが首相になれば「郵政民営化」に向けて動き出すのは明白で、発足前から滋賀の郵便局の局員の人たちも戦々恐々としていました。

 民営化の影響は郵便局内だけにとどまらず、取引先である私の商売にまで及んできました。というのも、私の会社は全国2万4540局(当時)の郵便局に粗品を卸ろしていました。また、滋賀県にある全217局(当時)の郵便局で扱っているカタログ販売の商品の卸しも請け負っていました。郵便局というお得意先が私の会社の売上に占める割合は、なんと約95%にのぼっていました。

 その年の6月には郵政省の郵政事業部門が再編され、2年後の2003年4月には日本郵政公社が誕生するなど、郵政民営化の流れを受け、各郵便局で予算が削られたため、当社の売上はあっという間に3分の1になってしまいました。さらによくないことは重なり、この状況がきっかけとなり、人前に出られない、電車にも乗れないという、以前にも何度かかかったことがあったパニック障害を発症してしまったのです。

 考えるのは、「これから先のビジネスをどうしていったらいいのか分からない、でも親父から受け継いだ暖簾(のれん)をつぶすわけにもいかない、かと言って手の施こしようもない……」ということばかり。さらに、結婚もしていて子どもも2歳の長男に、0歳の次男と2人いたので、当面の暮らしのことを考えると不安は募るばかりでした。

 お得意先だった郵便局長さんからは、「元ちゃんごめんな。予算がないから買うてやれへんのや」と優しい言葉をかけていただいても、余計につらくなるばかり。文字通り、「どうしようもない」という言葉でしか表現できない時期でした。精神的な部分だけでなく、実際に売上が3分の1に落ち込んでいるので、生活もままならなくなりました。「この状況をなんとかしなくては」と自分なりに考えるのですが、なかなか答えは出てきません。時間ばかりがただただ過ぎていきました。

 そのような中、2004年のある日、友人の会社が設立祝いをするということで、友人の会社が入っているSOHOが集まっている事務所に行ったときのことです。お祝いの席で、友人の会社の隣の部屋のWebサイト制作会社の方を紹介していただきました。

 Webサイト制作会社の方と、Webサイトに関することをはじめインターネットについての世間話をしていると、大津商工会議所が運営する「大津e湖都市場モール」を紹介してくれました。

 日をあらためて大津商工会議所に行き、e湖都市場モールの指導員の話を聞いていると「Eビジネス道場、ネット通販開始」と書いてある1枚のチラシを手渡されました。

 「何じゃらほい」と手に取り、つぶさに目を通しました。2004年当時、それまでPCにほとんど触れたことがなかった私が、「インターネットという世界の可能性を初めて感じた瞬間でした。チラシには、「インターネットで情報発信」と書かれており、滋賀県商工会連合会が主催するセミナーの案内のことが記されていました。

 「ネットビジネスというのはどんなものなんだろう?」と、興味本位で説明会に出てみることにしました。大津プリンスホテルで開かれた説明会に足を運ぶと、「地元の中小企業を何とか元気にしよう」という趣旨の勉強会だということが分かりました。会場を見渡すと200人くらいの参加者が集まっており、思っていたよりも人数が多いことに尻込みしそうになりました。でも、もう藁(わら)にもすがる思いだったので、「Eビジネス」という言葉自体もよく分かっていませんでしたが、その場でセミナーへの参加を申し込みました。

 この「Eビジネス道場」は全8回のカリキュラムで毎回欠かさず参加しましたが、終了後に毎回開かれる懇親会に出るお金すら工面できない生活が続いていました。このセミナーがきっかけとなり、私は「タオル屋で生きる」ことを決心します。ただし、そのときは後々の自分の商売を大きく変えることになるとは、思いもしませんでした。

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