その後の人生を変えた沖縄戦大田昌秀の「日本を背負って立つリーダーたちよ」(1/3 ページ)

» 2015年11月30日 07時30分 公開
[大田昌秀ITmedia]

 僕は1990年から8年間、沖縄県知事を務め、沖縄の代表として尽力してきました。しかし、意外に思われるかもしれませんが、若いころには、自分からリーダーになろうとか、人の上に立ちたいとか、そういう気持ちはまったくありませんでした。

 長い人生の中で、さまざまな経験を通して、あるいは、運命のいたずらによって、最終的に沖縄のリーダーとして立ち上がることになったのです。

 数回にわたって、僕自身の半生を振り返りながら、「真のリーダーシップとは何か」について考えてみたいと思います。

今でも悔しい思いをしている

 1945年3月26日、沖縄戦が始まりました。当時、沖縄には12の男子中等学校と10の女学校があり、そのすべての学校から10代の生徒が鉄血勤皇隊として戦場に駆り出されました。19歳だった僕も戦場に送り込まれました。

大田昌秀氏。1925年生まれ。沖縄県久米島出身。1990年〜98年に沖縄県知事、2001年〜07年に参議院議員。県知事在職中に大田平和総合研究所(現沖縄国際平和研究所)を設立 大田昌秀氏。1925年生まれ。沖縄県久米島出身。1990年〜98年に沖縄県知事、2001年〜07年に参議院議員。県知事在職中に大田平和総合研究所(現沖縄国際平和研究所)を設立

 僕らは日本軍に銃1丁と120発の銃弾、2個の手榴弾を持たされて、半袖、半ズボンで戦場に出されたわけです。なぜ手榴弾が2つだったのか。戦場では絶対に米軍の捕虜になってはいけない、捕虜になりそうだったら1つの手榴弾を敵に投げつけて、もう1つの手榴弾で自決しろ、と言われたからです。これは僕ら学生だけでなく、沖縄の一般の人たちも同様で、2個ずつ手榴弾が渡されました。

 結局、沖縄戦に参加した同級生は120人あまりいたけど、生き残ったのはわずか30人ほどでした。

 今でも悔しい思いをしているのが、通常、10代の若い生徒たちを戦場に出すには、国会で法律を作って、その法律に基づいて戦場に出さなければなりません。けれども、沖縄戦の場合、法律もないままに戦場に出されたわけです。その結果、沖縄の若者の過半数が犠牲になりました。

 沖縄戦で日本軍の司令官と参謀長が自決した日が1945年6月22日なんです。その翌日、23日に日本本土では義勇兵役法という法律ができて、男性の場合は15歳から60歳まで、女性の場合は17歳から40歳までを戦闘員、兵隊として戦場に出す法律が初めて公布されました。

 沖縄戦がほぼ終わった段階で、そういう法律ができたわけです。沖縄では法的根拠もないままに10代の若い生徒が戦場に出されました。10代という人生において最も感受性が強い時期に、無駄な死に方をさせられたのが一番悔しいです。

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