(2)水戸黄門こそドラマの見本
私はかつてシナリオ学校で脚本の書き方を習いましたが、そのとき先生に強く言われたことは「枷(かせ)」をいかに主人公にはめるかでした。普通の主人公が普通に生活したのではドラマになりません。普通よりはるかに厳しい環境で育ち、さまざまな艱難辛苦(かんなんしんく)を克服し、やっと勝負舞台に上ったものの、そこでも予期せぬアクシデントや神様のいたずらのような不運を最後に跳ね返して勝利……なんていうベタベタのストーリーは、実は脚本の正当な構成です。
この典型がドラマ「水戸黄門」です。貧しい町人や下級武士が悪代官にいじめ抜かれ、時には命も落とす悲惨さのピークに水戸老公一行が印籠で大逆転する。奇をてらったストーリーはいかようにもつくれるにもかかわらず、この偉大なるワンパターンの結果、42年間という歴史的人気を得られたドラマになりました。
悪代官の所業こそ正にハラスメントそのものです。悪代官のいない平和な村や町では、いくら水戸黄門一行がぐるぐる周回しても何もドラマは起きません。人の不幸や悲惨な境遇こそが最高のスパイスであるという、きわめて罪深い感性を、われわれは元から持っているというべきでしょう。
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