#SHIFT

令和の典拠『万葉集』 中西進が語る「魅力の深層」【後編】新元号の「梅花の宴」言及部分(3/5 ページ)

» 2019年04月19日 07時30分 公開
[中西進ITmedia]

遠の朝廷――筑紫路

 古来、筑紫(つくし)の修飾辞を「しらぬひ」といいならわしてきた。ややこしくいえば日か火か、仮名遣い上に問題があるとしても、やはり「しらぬひ」は「不知火」だと考えたい。何しろ学問を知るまで、年少の私は頭から「不知火」だと信じてきたのだから。そのことがまだ筑紫に旅したことのなかったころの私に、限りないロマンをかき立てていた。「つくし」とは「尽し」か。道の果て、限りを尽くした彼方の国には、人の火とも神の火とも知れない、ふしぎの火が燃えるのだという古代人の幻想に、私は長いこと憧れを持ちつづけてきた。

 たしかに、筑紫は大和の人間にとって遠い彼方にあった。帰京後の大伴旅人(おおとものたびと)が、筑紫で親交のあった沙弥満誓(さみのまんせい)に対して、

ここにありて 筑紫や何処(いづち) 白雲の たなびく山の 方にしあるらし(巻4-574)

と歌ったほどである。大宰府に赴任した大和朝廷の官人たちが、ひとしく望郷の念を抱き、一日も早い帰京を願ったことも、もっともなことであろう。

 しかし、彼らが一途に帰京を願い、筑紫を嫌がったかというと、そうではない。彼らは、

やすみしし わご大君の 敷きませる 国の中(うち)には 京師(みやこ)し思ほゆ 大伴四綱(よつな)(巻3-329)

という一方、

やすみしし わご大君の 食国(をすくに)は 倭(やまと)も此処も 同(おや)じとそ思ふ 大伴旅人(巻6-956)

と歌う。そもそも、こうやって大和か筑紫かと話題になること自体、筑紫の水準の高さを物語っているだろうし、積極的に同じだといった旅人の深層に、年久しい過去の歴史がひびいているというべきだろう。すなわち、筑紫は『倭人伝』以来の歴史をもち、現に大和朝廷の玄関口として、むしろ大和より先に文化を摂取する立場にあった。いみじくも「遠(とお)の朝廷(みかど)」というように、ここは大和に対峙すべき朝廷であった。神亀(じんき)・天平のころ(730年前後)をピークとして万葉に残されている歌は、この、対峙する朝廷における和歌としての性格を持っている。

 だから積極的に、筑紫の風土に入りこんだ歌も作り、好んで土地の民謡も採集した。山上憶良(やまのうえのおくら)が志賀の白水郎(あま)の歌十首(巻16-3860〜3869)を作るのはその典型であろう。この中には風土的な民謡が入りこんでいる反面、官命で死んだ一人の男をいたむ、官人としての詠嘆も加えられている。

 いや、対峙どころか、表玄関たる特色のままに、都よりより高い水準の歌が生まれたということさえできる。たとえば大伴旅人が梅花の宴を開いた(巻5-815以下)のも、大宰府にいたからこそであろう。

 旅人の和歌はことごとく斬新で、試作にみちたものだが、もし彼が生涯大和を離れなかったら、こんな歌はできなかったのではないか。彼が資質として持っていた漢詩的教養が、大宰府という場所を得て大輪の花を咲かせたというべきであろう。酒をほめる歌(巻3-338〜350)なども、その好例である。

phot 太宰府天満宮(写真提供:ゲッティイメージズ)

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.