「びゅうプラザ終了」で困る人はいない “非実在高齢者”という幻想杉山淳一の「週刊鉄道経済」(1/5 ページ)

» 2019年07月19日 07時00分 公開
[杉山淳一ITmedia]

 参議院選挙の期日前投票を済ませた。今回の私の判断は「表現規制の賛否」だった。賛は「公序良俗に反する表現は規制すべき」、否は「表現の自由は守られるべき」だ。どちらの言い分も一理ある。私がどちらに投票したかはともかくとして、この議論には「非実在青少年」という言葉がある。創作物に登場する未成年に対して性的表現がある作品を規制するか否か……だ。

 「非実在青少年」という言葉を聞いたとき、私は直感的に「非実在高齢者」を連想した。ただし、マンガ、アニメなどの創作物で虐待される老人ではなく、人々の心の中で創作される、実際には存在しない高齢者像だ。一例を挙げれば「インターネットが苦手な高齢者」「リアル店舗以外では買い物ができない高齢者」たちである。「非実在青少年」と「非実在高齢者」は語感が似ているだけで別物だと思いつつ、「想像の人物について人権擁護を議論する」という野暮ったさは通じると思う。

 私が観察している鉄道分野では、JR東日本の「びゅうプラザ終了」の報道で「非実在高齢者」が現れた。JR東日本は2022年3月までに事業エリア内全51店舗の「びゅうプラザ」を終了する。「駅の窓口がなくなったら、窓口を利用していたお年寄りが困るではないか」「何でもインターネット販売にして、ネットに不慣れな中高年が困るではないか」という論調だ。「JR東日本は中高年を切り捨てる」と言わんばかりの勢いだ。あるコラムで「びゅうプラザは中高年の憩いの場だった」という意見があった。冗談にもほどがある。病院の待合室か。

 確かに窓口を利用していたお年寄りは実在する。ネットに不慣れな中高年も存在する。しかし、窓口がなくなって「困るお年寄り」「困る中高年」が実在するかは疑問だ。なぜなら「年寄りや中高年が困る」の話者は困っている本人ではないからだ。

photo JR品川駅中央改札前。「びゅうプラザ」はみどりの窓口より間口が広く、カウンターもゆったりしている

 「年老いた私にとって、窓口がないと困る」という発言があるなら、困った年寄りはいると認めよう。注意深く聞くと、ほとんどの論調は「私は困らないけれど、年寄りや中高年は困るはずだ」である。インターネットに不慣れで、窓口に行かないと旅行の手配もできない。そんな老人、中高年像を作り上げて批判する。マッチポンプである。

 こういう意見に惑わされてはいけない。「びゅうプラザ終了」で困る人は実際にはいない。わずかながら存在するとしても、JR東日本は救済策を用意している。

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